第3号
2005.07.16発行
©ザ・玉島!!
 

 久しぶりに発行してみます。今気がつきましたが、ちょうど一ヶ月ぶりですね。
 今までのコラムは、玉島地方史みたいな感じでしたが、今回は、玉島に残る伝説や民話で勝負してみます!
 それでは、第三回のスタートです!!!   


玉島に残るお話アレコレ @

 
  @陶の君が岩
 1616年、3月23日の明け方、見慣れない大きな船が、亀山の港に着いた。
 亀山の村人たちは、「一体何事だ?」と口々に言いながらその船の様子を伺っていた。すると、中から現れたのは、立派な服装をした侍達。その中でも一段と立派な服装をしていた男がこの一行の主人のようであった。
 この男は、徳川家康の命を受けて、河内の国からはるばる岡田の殿様として入国したと言うことだ。
 亀山村の村役人は、驚きながら、百姓達に命じて浜辺に即席のお茶屋を建てて、休憩所とするなど入念に応待するとともに、使者を岡田の領地まで走らせた。
 これを聞いた岡田領服部(現在の穂田)の庄屋、水川与左衛門は早速、家来を二十人ばかり連れてお迎えに参り、家老に挨拶をした。
 家老は、「殿の乗り物を用意せよ。」と命じたが、当時の亀山には馬車もかごもなかったので、庄屋水川は殿様を背負って行くことになった。しかし、殿の直接からだが触れては恐れ多いと思い、ござのようなものを背中にかけてから、「負いまつらん。」と申したところ、ご機嫌よく殿は笑われた。
 こうして殿様を背負って、一行は亀山の坂を登り峠を越えて、岡田領陶山を通り、服部村まで6kmを歩いた。途中、陶の大堂と、服部村と陶村との境にある善郷の二箇所で休憩をとった。そのうち善郷ぜんごうでは、道端の石の上に殿様を降ろして休憩をとった。休憩中、殿様は色々と庄屋水川に尋ねたので、庄屋水川もまた説明したということです。これを記念して、この岩を君が岩と呼ぶようになり、今でも陶にこの岩が残っている。
 岡田にはまだ屋敷が完成していなかったので、一応庄屋水川の屋敷に落ち着き、約八年間ここにいたので、これを岩本陣屋と呼んだ。

   A鉾島山
 長尾の鉾島山、甲山、中島(宮原)なども、昔は海に浮かぶ島々であった。その当時のこと・・・
 甲山には、神功皇后が遠征の途中、ここに船を止められて、かぶとを召されたということで、この名がついた。
 また、すぐ北の鉾島では、この島の地上に鉾を立てて、多数の兵を集めるようにご命令になったというので鉾島の名がつけられたということだ。

  B平家の落人
 玉島の北部に、八島、亀山などの地名がある。
 昔、壇ノ浦の合戦に退廃した平家の落人達が、この地にある天王山(天王山古墳か?)という小高い丘に逃れてきて、その山の西南に広く分布する小竹の竹藪から、竹をとってきてはこの竹で弓矢をたくさんつくり、落人狩りに応戦する武器とした。
 また、水島源平合戦の際、源氏か平家かは定かでないが、この八島の地で兵を集め、ここでたくさんの矢を製造した。
 この話が、後に誤伝されて、
   矢島  ⇒  八島
   となったのではないかと思われる。


 ふぅ〜〜、第B回、三つお話を紹介しました。
 次回もお話をいくつかご紹介しようと思っています!
 それではまたぁ〜〜〜(´▽`)ノシ

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