第5号
2005.09.11発行
©ザ・玉島!!
 

 阪神もM15点灯し、急にたまたまが発行したくなりました(謎)今回も玉島に残る伝説や地名考を紹介していきます。では、第五回のスタートです!!


玉島に残る話あれこれ  A

 
千年比丘尼
 いまや丘陵地には桃畑が広がり、平地には田畑が広がる玉島北部に位置する富田亀山。ここが昔海だった頃の話である...
 とある漁師は、亀山の沖合いで漁をしていた。すると、引っかかった魚に世にも奇妙なものがあった。妙に大きな魚で、顔は人間そっくりだが胴はかたいうろこに覆われていた。その漁父は珍しいものをあげた!ということで、次の日村の秋祭りにご馳走として振舞ったのであった。
 みんな気味悪がって。箸をつけようともせず、各自土産にと渡されたその人魚の肉も、海に捨てることを忘れなかった。しかし、一人酒に酔って、海中に捨てることをせず、自宅まで帰ってしまった
 その男の着物をたたんでいた娘は、着物の懐からその魚を見つけたのである。娘は、ご馳走の残りだっと思った娘はその人魚を食べてしまった。

 その後娘は普通に成長し、婿ももらい子供も出来た。その息子も立派な若者になり、年をとって死んでしまったのであるが、人魚を食ったその娘は年からすれば立派なお婆さんであったが、不思議なことに老いもせず、死にもせず、父も子も夫もいない小屋に一人で寂しく暮らしていた。
 お婆さんは身内のものもなく、村中に知る人も無いむなしさに嘆いて黒髪を剃り落として、比丘尼となった。
 比丘尼が懐かしい故郷を旅立ったのは、人魚の肉を食べてから100回か200回目かのやはり秋祭りの時であった。
 祭り太鼓の音が野面を伝わってくる朝、里人たちは不思議なお婆さんを見送った。  村人は、比丘尼が村にいずれ帰ってくることを望み、比丘尼もまた村に帰ってくることを望んだ。その約束として、比丘尼は、杖を村の地に挿していった。
 ところが比丘尼は何年たっても帰ってこず、その代わりに杖からは芽が出て来た。これを見た村人達は、「枯れ木に花が咲くというが、不思議なことがあるもんだ。」などと珍しがった。
 しかしそれでも比丘尼は帰ってこず、杖の方はどんどんと伸び、枝を張り、見事なすがたを近隣に誇った。
 亀山の海は干拓せられて、平野となった。村のものではるばると若狭の国(今の石川県)へ旅をしたものがいたが、その人はある庵で年老いた比丘尼に会った。その比丘尼の問うままに、備中のものであると答えると、「なつかしい。亀山の沖ではまだ人魚が取れるか。」と問うて、海であった当時のことを話した。「陣魚が取れるどころか、今では海も無い」と村の者は答えたが、比丘尼は今更のように世の移り変わりに驚いた風であった。船がついていた頃とは300年あまりも隔たりがあった。
 北川部落の東よりの裏山に坊山というところがあって、この北麓が千年比丘尼の庵跡と伝えられる。ここに比丘尼が植えたというビクシンの古樹があって、もと玉島市の天然記念物に指定されていたが、なしの病菌の宿り木になるというので惜しくも切り倒されてしまった。


 〜玉島地名考〜
 ・道口
 玉島の北西部に位置する富田道口。このあたりは、その昔海だった頃、入り江になっていて、大きな港でもあり、非常に良好な船泊場でもあった。
 港は、現在山陽自動車道高架橋が上にかかる、富峠へと向かうあたり(元JA玉島北支店あたり)が港であったと思われる。ここから小田などへ向かうことが出来たため、道の入り口=道口となったのでないかと思われる
 ・道越
 道口より南側あたりが道越である。北側の道口と関連があるように思えるが、ほとんど関連は無いものと考えられている。道越ももちろんその昔海であった。今は山一面団地となっている山も、海に突き出た半島のような島であった。(ここを現在、陽海山という)ここは、昔、甕海山といい、天正17年(1589)頃、横谷猿掛城に拠った毛利輝元の武将、細川元通が本城である鴨方城の出城として築いたところである。つまり、この地にとりでがあったのである。このとりであった小島と、海を挟んで西側に位置する島との間は、潮の満ち引きにより馬でわたれるほどであったという。この事から道を越えられる=道越となったのではないと思われる。因みに、陽海山の名の由来は、とりでがあったころ、甕海山の別名を要害山と呼ばれていた。これが後に陽海山となった。


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