第7号
2005.09.18発行
©ザ・玉島!!
 

 阪神優勝間近!?よ〜しぃ〜第七号もがんばります!
 では!第七号のスタートです!!


唐船

 第一回から必ずの様に出てくる一文ですが・・・
 玉島はその昔、島を玉のように散りばめた海であった。
 そのため、大きな船は玉島よりも南の外海を通っていましたが、小型の海難事故を避けるためか、玉島などの中海(当時、吉備の中海と呼ばれていた)を通っていた。特に、九州からのぼってきた船や、大和地方から九州方面へ行く船はここを通っていた。
 しかし、この安全な航路にも、暗礁があったり、難所と呼ばれる激流の渦巻くところもありました。
 今、金光教本部のある木綿崎ゆうざきの東に津というところがあり、この津は付近での良港で、塩を焼くかまがあったところでもあり、出入りの船で賑わいました。この港を出て東に向かって少し行くと、八重山と柏島との間が難所の一つになっており、行き交う船人から恐れられていた。
 干潮ともなると、海水が吸い込まれるように、ごうごうと水が流れ込む狭い海峡であり、その上海中には姿を現さない暗礁がいくつもあった。
 昔々の、11月3日の出来事である。
 その日は、寒く、暴風雨であった。この潮路にさしかかったのは、唐の船。はるばる海を渡って、日本に着いた喜びからか、折りしもはげしい西北風をものともせず、津で一泊するにはまだ日が高いと思ったのか、帆を下ろすことをしなかった。しかし、これは唐の人々の大きな誤算であった。
 八重沖に差し掛かってから、ますます吹き募る風のため、船は少しも進まなくなった。午後三時ごろ、元浜水道(旧柏島の島の南側の水道と思われる)に差し掛かったのだが、思ったより潮流は早く、南に流されそうに・・・。柏島の北手に出ようとあせるが、船はいっこうに進まない。ここでやっと唐の人々は日本の内海の恐ろしさに気づいたのか、櫂をあやつり、舵をとったが、その甲斐はなかった。帆はようやく下ろすことは出来たがその甲斐もまたなかった・・・。
 とかくしているうちに、日は暮れかけたそのとき・・・突然船は暗礁に乗り上げ、自由をも失い、めりめりという音とともに沈んでしまい、舟人たちは船から投げ出されてあっという間に波間に消えてしまった。
 地元の人々も嵐の中で救助に当たることが出来ず、目の前で唐の人々は命を落としてしまった。
 このことがあって  付近の人々は、この人たちの霊を慰めるために、ほこらを建てて祀りました。これが今でも残っている唐神様の由来となる。
 その地は、今から350年ほど前に干拓された時に、この地を唐船とうせんと呼ぶことになったわけである。
 暗礁の一部の岩も里見川の中ほどに残っていましたが、残念ながら大正13年の河床改修工事の時に取り除かれてしまった。今では旧国道A号線、県道などが通っている場所である。  

大正まで残っていた暗礁の岩


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