第8号
2005.12.26発行
©ザ・玉島!!
 

◆お詫び このコラムは、2005年12月26日に書いたコラムを再編したものであります。前回執筆しましたコラムは、管理人のミスで削除してしまい、コラムナンバーHと同一のものになっておりました。以前と、文章が変わっておりますが、内容的には一緒であります。
ご迷惑をお掛けしましたことを、お詫び申し上げます。 
06’1.10 ザ・玉島!!管理人 みず

なお、今回のコラムには、一部宗教的なものが含まれていますが、これらの信仰とは管理人は一切関係なく、この信仰を推奨するものではありません。
難しい専門用語には、【 】でくくって解説しております。  


富の霊石

 玉島の北西部に位置する、玉島は富。かつては、深い入り江となった良港であり、『道口の津』とよばれていた。漁港として大いに栄えていたことから現在の『富』の名となったと言い伝えられる。現在は、干拓され、富峠となり、深い山林に中にトンネルが通るさびしい場所である。
 明治35年頃のことである。富の花土留三郎という人が言い出した。
 「不思議なことがあるもんだ。あの西の山に火がともる。何かが起きるに違いない」
 しかし、まわりの人々は「そんなことがあるもんか」っと相手にもしなかった。
 それから数年たったある日、花土氏の予言が当たったかのように、村人が農作業中に、山から弘法大師【空海(くうかい)の諡号(しごう)。 】の像が刻まれた霊石を発見した。村人達は感激し、そこに立派なアーチ型のほこらをたてまつり、霊石とは別に弘法大師の坐像・立像を奉納、また十坪ばかりのおつや堂【詳細不明】、風呂場、便所の設備も整えられ、やがて霊験あらたかな富とお大師様として関西一円の人々に知れ渡るようになったのである。
 毎月21日のご縁日【ある神仏に特定の由緒ある日。この日に参詣(さんけい)すれば特に御利益があると信じられている。】には、近郷各地から5000人以上の参拝者があり、平日でも1000人を下らないほどであったという。富の道には人々の行列が続き、特に3月と7月のご縁日は盛会で、小屋がけの店も十件ばかり軒をならべて、食べ物、飲み物、果物などを客に売っていた。特に、子供達にとっては、おこずかいをもらい買い物をするという楽しみでもあり、また遠方各地の人々にとっては格好のレクリエーションでの場であった。
 ほこらの脇には、金水、銀水と呼ばれた延命の水が湧き出ていて、この水を飲めば、長生きが出来るというので人々はとっくりにつめて帰った。
 こうした賑わいは、大正5年頃がピークとなりこの年には参拝者の献米で餅をつき、みんなに接待したほどであった。お盆には一晩中盆踊りで賑わった。
 大正6年には鴨方町の明王院に依頼して、千部経(大般若経)【追善や祈願のために同じ経を千人の僧が一部ずつ読む法会。1僧が千部読むこともある。千部経。千部読経。 】を4、5人の僧侶によって盛大につとめてもらったが、不思議なことに、これを境として、ぱたりと火が消えたように参拝者がいなくなってしまった。
 それでも、富と人々は、縁日には参拝していたが、これもまた大正年間だけで終わってしまったという。

   現在でも、ほこらは存在していると思われるが、調査はしておらず、詳細は不明。

参考文献:『倉敷の民話・伝説 』/森脇 正之 編  


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