第11号
2006.02.05発行
©ザ・玉島!!
 

 気がつけば、たまたまももぅ10号を越えてますね☆これからも、よろしくお願いします♪゛  


黒日売クロヒメ物語〜古事記〜

 古事記こじきとは、奈良時代の歴史書である。三巻からなり、天武天皇の勅命で稗田阿礼ひえだのあれ誦習しようしゆうした帝紀や先代旧辞を、元明天皇の命で太安万侶おおのやすまろが文章に記録し、和銅五年(712)に献進。日本最古の歴史書で、天皇による支配を正当化しようとしたものである。上巻は神代、中巻は神武天皇から応神天皇まで、下巻は仁徳天皇から推古天皇までの記事を収めている。
 果たして、何故この歴史書がたまたまに登場するのだろうか?
 その答えは、第16代仁徳じんとく天皇(在位:313年1月3日 - 399年1月16日)にある。
 仁徳天皇は、仁政の人として知られているが、また農政にも前向きに取り組み、池を掘り、堤防を作り、交通の便をはかって、入り江を掘り、船着場を定めるなどの土木工事もおこした。
 仁徳天皇には、4人のきさきがあって、6人の子が生まれたが、大后であるイワノヒメ命は、天皇を愛するあまり、自分のあとに寵愛を得た姫たちに対して、たいそう妬みが深かったので、天皇に仕えている宮女達も、イワノヒメ命の目が恐ろしく、なかなか天皇のそばに近づくことが出来なかったという。もし、ちょっとでも、彼女達が愛想のよい顔を天皇に向けようものなら、大后は地だんだ踏んで口惜しがった。
 あるとき、天皇は吉備の海部あまべあたえの娘、名は黒日売(クロヒメ)という乙女が、髪はぬば玉【ヒオウギの種子。丸くて黒い。】のように黒く姿かたちがうるわしいと聞いて、宮殿に呼び寄せた。それからは、黒日売なしには夜も明けぬというほど気に入った。しかし、このことが大后イワノヒメ命に知られ、イワノヒメの手によって、難波の港から生まれ故郷の吉備の国へ送り返されてしまった。この黒日売の故郷こそ、玉島の黒崎なのである。
 天皇に別れの挨拶も出来ず、涙ながらに乗船していると、これに気づいた天皇は高殿に登って、遥か沖をご覧になって、次の歌を詠んだという。

(難波の沖には、今日はいつになく多くの小舟が浮かんでいるのが見えるが、あの舟の中には、吉備の黒崎の美しくいとおしい娘が、国へ帰って行く船もまじっている。かわいそうなことよ。)  すると、この歌を聞いた大后は腹を立て、港まで人をつかわして、黒日売を舟からおろし、陸路を歩いて帰れと叱りつけた。
 黒日売が去った後、天皇は恋しさが募るばかりであったが、淡路島見物に行くといって船出した。天皇は、淡路島に着くと、遥か海上を遠望して、次の歌を歌った。

(波の穂の白く照り輝く、難波の崎を過ぎて、そこに立ってわが国を見渡せば、海上遥かに淡路島が見える。おのごろ島が見える。さけつ島も見える。あのかわいい黒日売の住む黒崎は、どこの辺りだろうか、早く会いたい...)
 この淡路島から旅を重ねて、吉備の国へ、黒日売の元へと行った。
 黒日売は。仁徳天皇のお姿を見て、大喜びで案内して食事をさし上げた。
 料理をするために、菜園に生えている菜を摘んでいると、天皇はそばへ来て、

(山の料地に蒔いたたか菜も、吉備の乙女と一緒に摘めば、心はればれとして楽しいことか)
とお詠まれになった。
 天皇はいつまでもこの地にとどまりたい思いにかられたが、そうしているわけにもいかず、日を経て黒日売に別れを告げ、都へ帰っていったという。。。。
 黒崎屋守には、黒日売の住居跡だといわれる、黒瀬(黒日売)神社がある。天皇をお迎えして御殿を建てて住んだところは、今も新殿にいどのと呼ばれている。
 この『古事記』の物語は、五世紀前後の大和朝廷と吉備の国との密接な関係を示すものといわれている。
 また、総社市内のこうもり塚古墳は、この黒日売の古墳であるという説もある。
参考文献
『玉島風土記』/ 森脇正之 著
『全訳古語辞典』/ 旺文社     


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