第13号
2006.06.26発行
©ザ・玉島!!
 

 


長尾の百姓一揆

 江戸時代、約300年間続いた幕藩体制の中で、飢饉(ききん)や年貢米の石高などのトラブルにより、多くの村で農民が蜂起した記録が、一揆という形で残っている。
 ここ玉島の中では、一つだけ農民の蜂起の記録が残っています。
 高梁川の西岸に辺り、新倉敷駅や山陽道ICなども配置され、現在の玉島の中枢となりつつある長尾。ここは丹波(京都付近)亀山藩の飛び地であった。(富田亀山とは関係ない)亀山藩は約5万石の領地で、そのうちの1万2000石は、飛び地として、玉島村、上成村、長尾村、東勇崎村などであった。
 奉行など、上方の役人は、丹波亀山より派遣したが、その他の役人は、現地玉島の人々を雇い入れた記録がのこっている。また、領内の各村の富裕で古くからある家の者を藩の御用達【 江戸時代、幕府・諸藩に出入りを許されて用品納入や金銀の調達などをした特権商人】として登用し、藩に対し、金融、借入金の調達、御用金の管理に応じるもので、名字帯刀を許されました。

   宝暦年間、玉島地方は飢饉に苦しめられた。そのような時代の中で、長尾の百姓は大いに苦しみ、村内の大地主2家に対し、つまり御用達を命じられていた旧家に小作料の減免を哀願したが、両家ともこの哀願に応じようとしなかった。
  このことに怒りを覚えた村民は、2軒の地主の家に押し入り、家を破壊したという。
 このことにより村民は代官所に引き立てられ、厳しい取調べが続き、死刑は免れることはない、とでも言うべき有様で、村全滅ともなりかねないほどであったといわれる。

 しかし、この時2人の青年がこの一揆の首謀者と名乗り出て、すべての罪を引き受けた。これにより、青年2人は死刑罪となって、高梁川の狐島川原で打ち首となるのであった。いよいよ打ち首が執行される日になり、村民たちはどうしても命請いしたく思い、村民の檀家寺である、船穂村『宝満寺』住職の袖にすがって哀願した。
 しかし、住職は村民達の声に応じず、何故か動こうとしなかった。
 この住職に村民達はいらだち、打ち首執行に遅れては一大事と思い宝満寺住職を無理やりカゴに乗せ、現場に急いだ。鉾島の中潟という一本道を刑場に向かっていたが、かごの担ぎ手の一人が急に意識を失って倒れた。担ぎ手はすぐに意識を取り戻し、狐島の島影に消えていったという。ちょうどこの時、村民達は長尾の八幡宮で事件のいきさつを見守っていたが、カゴの担ぎ手が倒れた刻と同じころ、神社北方の松の大木が風もないのに中ほどから大きな音を立てて倒れたと言い伝えられている。
 村民達は不吉の予感に打たれながら、いきさつを見守っていたが、カゴが刑場に到着した時には、すでに川原の小石が血で染まっていた。

 何故この時、宝満寺住職が行動にうつろうとしなかったかについては、宝満寺と玉島奉行所とのあいだで特別な関係があったためである。宝満寺で5月に行われる行事に際して、丹波亀山藩主の御紋付の墓の借用を寺から願い出ていたのである。他にも多くの宝満寺と玉島奉行所間の関係の記録が残り、住職の行動のわけが明らかになるのである。

飢饉という過酷な時代の、先人達の犠牲によって現在の平和な玉島が成り立っているのは言うまでもない。    


たまたまバックナンバーに戻る   TOPに戻る
Copyright© 2006 presented by."Mizu"