第17号
2006.09.24発行
©ザ・玉島!!
 


帆落とし天神と神前神社の由来


 今年も、10月の第4週土日には、富田地区で秋祭りが行われる。同日に行いながら、富田学区には大きな神社が二つあるために、神事や奉納は別行動である。
 この主な二つの神社は、西から、道口に鎮座する『道口八幡宮』そして、亀山にある『神前神社』である。八幡宮も、神前神社も、今は道口の山際にあったり、亀山の丘陵地の先端部分であるが、今から3〜400年前までは、どちらも海に突き出た半島であって、船乗り達は航海の安全を願っていた。
 特に神前神社は、当時天神の鼻とよばれ、常に天神が祭ってあった。天神が鼻を通る帆船は、この岬の前を航行する際は、必ず帆を下げて天神に祈願しなければ通ってはならないという決まりがあったという。
 人々は、帆下げの天神と呼び、また道口八幡神社に対しても同じ風習を行っていたという。

 しかし、この天神の鼻であるが、『神前神社誌』(昭和63年:神前神社総代会 発行)の由緒欄によると、
 
 由緒(抜粋)
 寛文10年(1670)、富田・八重沖の干拓ができ、ついで増原池・大木池など灌漑用溜池が完成したため、農民の入植者も次第に増加してきた。そこで、延宝6年(1678)、当山、神前山に八重・道越・七島・亀山・島地の各村の鎮守神を合祀し、神前宮が創建された。・・・(後略)   

 つまり、干拓が1670年に完成し、それから8年後に創建されたのが、現在の神前神社のようだ。さて個々で疑問に思うのが、帆を下げて航行していたころは当然干拓地であるため、この神前宮が帆下げ天神ではないようである。それより前はなにがあったのだろうか?同じ神社しに、歴代の宮司記録が載っているが、いきなり『9代 (神職初代)』とある。そして同じ欄に、『創建期より現在まで〇野家である。なお当家八代目までは住職であった。』と書かれているが、つまり神前宮の前身は寺社であったようである。当時、亀山は、俗に寺院村と呼ばれるほど寺院が点在していたという。これらの寺院は、後に、この地を領有していた池田家によって取り壊されたり、火をつけられたりして、消えていったものが多い。世にいう廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)であった。この岬にあった寺院もこの影響を受けたのかもしれない。   


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