第21号
2007.03.07発行
©ザ・玉島!!
 


陶の君が岩

〜岡田藩主伊東長実(ながざね)と 水川与左右衛門〜

 江戸初期、幕府が成立してまだ間もない頃、徳川家康は各地に藩主を任命し派遣をすすめていた。
 この時、現在の倉敷市真備町附近(当時は備中国下道郡岡田)の藩主に任命されたのが、伊東長実である。

 

伊東長実について

 伊東長実は、1560年(永禄3年)尾張国(現 愛知県周辺)に生まれ、1576年(天正7年)には豊臣秀吉に仕えた。
 1582年には、備中高松城水攻め、本能寺の変の動乱の後、それまでの勲功により備中国川辺周辺の地(現 倉敷市真備町川辺)、一万石を豊臣秀吉から与えられた。
 秀吉の死後、石田三成の陰謀を徳川家康に内通して大いに喜ばれたというが、関が原の合戦後は秀頼(豊臣秀吉の子)に遣え終始豊臣方に味方していた。
 その後、戦乱に際し、敗戦の色が濃くなり高野山へと落ち延びた。
 高野山にて自害せんという折に、徳川家康・秀忠(家康の子)はかつての恩義に報いて命を惜しみ、長実父子を助け父子ともども御家人として召使えた。
 そして、備中国下道郡(総社南部・真備町)・美濃国池田郡(岐阜県南部)・摂津国豊島(大阪市付近)・河内国高安郡(大阪府東部)の4郡、計1万300石を賜わり、備中国岡田村(現 倉敷市真備町岡田)に移住することとなった。

 

入国のあらまし

 長実が入国する以前、穂井田村大字服部(現 倉敷市真備町服部)に、岡田藩の殿様が到着するので屋敷を作って置くようにと文書が届いた。当時この村の庄官(庄屋)であった水川与左右衛門は村内の百姓達と相談し、築山・泉水などの庭も整備して準備を進めていた。
 そして、1616年(元和2年)3月23日早朝、伊東長実は、浅口郡亀山村(現 倉敷市玉島八島 字 亀山)の亀山湊へ船をつけた。

 この湊は現在山谷下池と呼ばれる池の南側付近で、付近の家主によると代々ここが湊であったと言い伝えられている地である。一昔前までは、この地に湊の名残である石造物があったといわれるが今はない。著者はこの付近で貝殻が集中的に分布しているのを確認した。

 この到着の知らせを受けた与左右衛門は、20人ほどの人を召し連れて、服部村より峠を越え亀山にたどりいた。その頃亀山村では、事情をしらない村人達が驚きながらも茶屋を建て、殿一行を粗末ながらも接待したと伝えられている。
 そして、岡田藩家老の、千石平左衛門(せんごくへいざえもん)は、『すぐに殿の乗り物を用意するように』と言い、いざ服部村谷本の陣屋へ殿一行をお連れしようとしたが、当時の亀山村は、家数わずか25軒ほどのさびしい村であって、塩田で村の経済を支えていた。しかし、往来の亀山焼の窯業により付近の木々は多く伐採されていたため日常生活のたき火にも苦労していたほどであったという。

 この貧しい村に、馬や駕籠(かご)はなく、殿様を歩かせるわけにはいかないっと思った与左右衛門は『背負い奉らん』と言い、これに快諾し微笑まれた殿は与左右衛門に背負われた。この際、殿に直接触れては恐れ多いと思い(こも)(ござのようなもの)をかけ殿を背負った。
 一行は亀山の峠を歩き出した。またこの時、多くの荷物を運ぶ人手を見かねた亀山村の人々は手分けして荷物を担いだり背負ったりしてあとに続いて歩き出した。これも一種の大名行列であることには違いはない。一行は亀山西光坊(さいこうぼう)を越え陶にむかって歩を進め、途中陶村の大堂、陶村と服部村の境界に位置する大岩の上で休まれた。この岩こそ、今に残る『君が岩』である。
 君が岩の上に立たれた長実は、与左右衛門に『ここはどこか?』ときき、これに与左右衛門は『ここはもう、お殿様の領地でございます。』と答えたところ、『善き(さと)である』と答えたという。この言葉より、善郷(ぜんごう)という地名となり、これが後に転移して前後と言う地名と成った。   

入国に同行したメンバー(入国時の主な家臣)

 @ 千石平左衛門(せんごくへいざえもん)
   ・家老職 高 360石
   ・この時推定55歳
   ・藩主入国の先導役をつとめる。二代定次の時、『千石』を『仙石』に改め、幕末にいたって元の『千石』にもどす。
 A 守澤嘉兵衛
   ・給人  高 100石
 B 濱半右衛門
   ・給人  高 60石
 C 長瀬六右衛門
 D 山本某
   ・藩主入国の際、播州高砂浦よ乗船。この時高砂浦で船持ちであった山本氏が自船を御座船として亀山湊までねんごろに支配お供した功により中小姓に召抱えられたという。)山本兵次と称する者か)
    また、弟の山本某は浅口郡阿賀崎湊(新町通り)にて播磨屋の屋号をもって海運業を営み、岡田藩御用達として運送支配にあたっという。   

入国その後

 当初谷本に陣屋を構えていたがその後、真備町岡田に移した。
 入国時にお世話になった亀山村には、陶村の弥高山への入山許可書(山札)を25軒の家に一つずつ与え、自由に薪・たき木とりや下草刈を許した。
 村人は喜び、そのお礼に毎年、初塩を一石長実に献上したという。このしきたりは江戸の終わりまで続いた。亀山の旧家に、この山札が現存するかどうかは調査されたことなくわからない。
 また、岡田藩領内の年貢米を、陶村の蔵奉行のところへ集め、亀山湊で船積みして大阪へ送ったとも言い伝えられる。
 水川家に対しては、伊東長実入国当初、水川家は、代々『西』という姓を名乗っていたが、この入国の際の世話に感謝し、長実より『水川』という姓を受けたと言い伝えられる。   

服部村 水川家に関して【略記】

 水川家の祖は、院政時代、宮中の警備として配属されていた。藤原家の陰謀により天皇の座を追われたことで知られる花山天皇であるが、この天皇のお供として同行したメンバーの一人が西宗摩守(にしそうまのかみ)である。花山天皇の行脚の記録は、全国各地に残っているが、現在の高梁市にも多くの言い伝えが残る。この中の一つに、高梁市落合町にある、瑞源山『深耕寺』の縁起由来がある。
 深耕寺は、1006年の創建で、花山天皇が建立したと言い伝えられ、この時にも同行していた西宗摩守の祖先が同じ高梁市に残った。高梁市の一部に西家が集中する地区があり、この地が水川家の先祖である。
 その後、戦国時代には毛利家に仕え、浪人した者が、真備町八光に住み、庄官の地位を得たといわれる。

【参考文献】
■『吉備郡史』永山卯三郎
■『岡田の殿様と陶の君が岩』渡邉義明
■『端源山 深耕寺誌』深耕寺誌編集委員会


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