第22号
2007.03.20発行
©ザ・玉島!!
 


玉島干拓史

〜玉島ができるまで〜

 江戸時代、それぞれの藩主が、自らの領地面積を増やすために新田開発がブームとなるが、玉島もまぎれもなくこの対象であった。とくに当時の玉島は、高梁川からの土砂の堆積により浅瀬が広がっていて、また島と島の間を結べば新たな土地が完成するという新田開発にとって絶好の場所であったことには違いはない。
 ここでは、玉島の地がどのように生まれていったのか、図と文で流れをおって解説していきたい。

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■長尾内外新田【松山藩】

干拓者:池田長幸・水谷勝隆
完成年:寛永元年(1624)・寛永19年(1642)
 玉島を干拓していく初期段階として、長尾の入り江を埋め立てていった。
 これが、玉島干拓の始まりである。
 長尾内外新田の開拓によって、合計40ヘクタールの新田開発に成功した。

A

■船尾(穂)新田【松山藩】

干拓者:水谷勝隆
完成年:正保元年(1644)
 長尾新開に続いて、2年後完成したのがこの船尾内外新田で、松山川(現在の高梁川)の河口にあたる場所であった。この地は上流からの堆積物で埋まりつつあったので前述の長尾新開とともに始めに干拓したのであろう。

B

■勇崎内新田【松山藩】

干拓者:水谷勝隆
完成年:正保3年(1646)
 松山藩が、長尾や船尾新田を確保するためには、『玉島新田』の開発と『阿賀崎新田』の開発を必要とした。
 この二大新田の開発には、海潮をさえぎるための水門工事を達成する必要があった。そのために勇崎内新田を開拓、柏島を半島化した上で塩田を造成することにも成功した。
 倉敷市埋蔵文化財地図に見える、柏島西側にある遺跡の『桜の堤』(北)と『正保堤』(南)はいづれもこの干拓時のものか。  

C


■玉島新田【松山藩】

干拓者 :水谷勝隆
完成年 :万治2年(1659)
請負奉行:大森次郎元直(八田部村(現総社市)庄屋) 
 柏島を半島化したことで、松山藩の干拓事業は大いに進むことになる。玉島新開の開拓をはじめる前に、干拓者にあたる水谷家の鎮守羽黒大権現を阿弥陀山(現在の羽黒神社がある山)に勧請し、工事の成就祈願をした。このことからも、いかに工事の重大さ、規模の大きさがわかり松山藩の命運をかけていた事業といえる。
 まずはじめに着工された場所が乙島と阿弥陀山の間の締め切り堤防であった。この堤防と、福島との間の堤防(高梁川西岸の堤防)と爪崎から七島の糸崎を経由して阿弥陀山の堤防、合わせて三つの堤防によって、乙島・上成・爪崎を結ぶ広大な玉島新田が出来上がった。
 工事が始ったのは明暦2年(1655)で、はじめに潮止めを行なった。悪水路と玉島港との間に四ヶ所の水門が設置されて新田の安全が確保された。
 またこの時の潮止めの堤は、現在上部にアパートが建っているが石垣は当時のまま現存している。

D

■上竹新田【岡山藩】

干拓者 :池田光政
完成年 :寛文元年(1661)
 この頃、現在の道口、富、七島(現八島北側)は岡山藩、池田光政の所領であった。この頃、全国では自分の所領を増やすために新田開発はブームで玉島では松山藩のほかにも岡山藩が干拓事業を進めつつあった。
 この干拓の記録は、『岡山藩池田文庫撮要録巻12』に残っている。この干拓の名残が次に述べる七島新田とこの上竹新田の南側にあたる、現在でいう玉島北中学校南側の澪や道口川である。  岡山藩と松山藩の間では、後に治水問題で江戸訴訟が起きるなどといった問題も起こっている。

E

■勇崎外新田・黒崎浜新田【松山藩】

干拓者 :水谷勝宗
完成年 :寛文6年(1666)
 水谷勝隆の息子である勝宗がはじめに手がけた新田開発である。
 この干拓により塩田経営が更なる収益をあげたと推測される。

F


■七島新田・道越新田(八重新田)【岡山藩】

干拓者 :池田光政

■阿賀崎新田【松山藩】

干拓者 :水谷勝宗

完成年 :いずれも寛文10年(1670)
 玉島新田など大規模な新田開発が進んだことにより、この年相次いで新田が完成した。玉島新田の開発によって乙島は陸地化し、半島化していたが、次に柏島を陸地化しようとし阿賀崎新田の開発に乗り出したのであった。
 阿弥陀山と柏島との間に堤防(潮止め)がもうけられ、全長391メートル、幅53メートルあって、この工事によって同時に新町通りも形成され玉島港の後の膨大な利益をもたらすきっかけとなった。
 またこの新町通りによる海水の遮断は、自領・他領を問わず新田開発を可能にした。
 よって岡山藩では七島新田と道越新田の開発を進めることになったが、次第に南下していく岡山藩の干拓に松山藩は両藩の新田境界を決定した。金光町八重の西端、現在の糸元田から島地の東端糸崎まで東西に糸を張り、また北川沖の糸本から新開潮止めの土手まで南北に糸を引きこの糸の南部と東部を松山領、北部と西部を岡山藩領とした。糸崎などの地名はこの事業によるものである。

G

■柏島森本新田・勇崎押山新田【松山藩】

干拓者 :水谷勝宗
完成年 :延宝3年(1675)
 柏島の岬と岬を結び、森本新田。押山と柏島を結び、勇崎押山新田を開拓した。これらはいずれも塩田の為の塩浜として開発された。
 それ以来、押山浜や勇崎浜と称された。
H

 そして江戸の大まかな干拓がこれにて完成することとなった。
 現代になって、乙島新開が開発されたり、養父が鼻沖の開発が進むが、今後江戸に玉島が繁栄したように、ハーバーアイランド国際貨物ターミナルなどの新たな工業地が繁栄をしてほしいものである。


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