玉島地区の中央部に位置する玉島は江戸時代問屋街として栄たちで、現在も玉島の古い町並みが残る場所です。玉島の由来は諸説存在するため、説ごとに分けて説明します。なお、@ABと番号を振っていますが、有力説順ではない・・・・のでご注意下さい。


  江戸時代玉島は、備中松山藩(現在の高梁市付近)の飛び地(本領から離れた場所に設けた領地)であった。寛永年間(1624)から寛文10年(1670)の間、松山藩主水谷勝高隆みずのやかつたかの手によって、現在の陸地が作り上げられた。この際、現在の玉谷地区(乙島の北方)より、二つの真ん丸い玉が出土し、このことより玉島と呼び始めたという説がある。なおこの玉は、旧柚木家(西爽亭)に現存、展示してある。


 干拓以前、玉島は船が往来し、また船泊まりとしても名をはせていた。
 天平8年(736)、当時の朝鮮半島にさかえていた国である、新羅の遣いをする人が玉島の沖合いで、
   ぬばたまの 夜は明けぬらし 玉の浦に 漁りあさするたづ 鳴きわたるなり
と詠んだとの記録が、『万葉集』に残っている。この歌がどこで歌われたかについてはいくつかあるが、玉島の沖合いで詠まれたという説が、万葉集の中の歌の配列の関係などからみて、学会でも定説である。なおこの説については、ザ・玉島!!内のコラムたまたまを参照)


 干拓以前、島が点々としている多島美を、玉のような島々が連なっている地=玉島となったのではないかとの説もある。

【管理人の推測あり】
  西暦200年頃、仲哀天皇の妻であった神功皇后は、朝鮮新羅へと遠征するために、難波の港(現在の大阪府)から出航し、瀬戸内海を航海して新羅に向かったと言い伝えられる。
 神功皇后は、この途中、玉島に船を止め、下り休息した際、海岸?できれいな光る鶏卵大の玉を拾われ、美しい玉だ、この地を玉島と名づけようといわれた。この神功皇后は、地名考にも何度も登場している。  この由来に関する文献は少なく、内容からしてもどうしても信ずることができずにいたが、先日友人から、長尾地区野呂で、水晶が出たことがあると聞いた。野呂自体は標高が当時の推測水位よりも高く、ここまで神功皇后が行ったとは思えないが、それよりも南にも水晶が存在していた可能性はある。なおこの説は、佐賀県玉島川付近の伝承である可能性もあり、はっきりした事は言えないが、この説で考えると、江戸時代より数百年前、玉の浦(記録にのこるのはS736年とよばれたことも矛盾がなくなる。


【管理人の考え】 〜編集中〜



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