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中国絵画における奇想と幻想 ジェームス、ケーヒル著**新藤武弘訳**国華978
最近読み返した本の中に興味ある記述があった

P21
キョウケン
”平行線と相交わる対角線からなる反正統的構図を基本にしており、筆致は線描による
骨組みの上に同様の濃墨をもって小さな筆触を重ねて行き、、、、略、、、
この土地はおよそ人の棲む場所とは思えないので、その中の数軒の家屋や、寺院の屋根や
、、、、、しかし、それらは画中の焦点とはならず、観者の眼は、この世のものとも思えぬ山岳と懸崖による構築物の正体を把握しようと落ち着かずにまさぐり続ける。まったく予期せぬものによって絶えず刺激を受けている、、、、画家の内面にある胸中の丘がく*を、これほどの直接性と、これほどの力量をもって、表現した絵はほかにはあるまい。”

下P27
石トウ
”岩山は/*濃淡さまざまな、太い、とぎれとぎれに曳きずった筆線で*/描出され、そして
/*濃墨の個所を辿ると*/前景右方向から大きくS字形を描きながら亭屋をとり囲む
かたちになっている。このムーブメントの起点となっているのは、、、、略、、、、虚空の中に消散していく。/*各部分それぞれが相互に影響しあい相互に作用しており、、、*/風にそよぐ草のように、無数の線で出来た実在感のないものと化してしまう。”
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キョウケンの図についてケーヒル先生が説明される
「しかし、それらは画中の焦点とはならず、、、、、構築物の正体を把握しようと落ち着かずにまさぐり続ける」「まったく予期せぬものによって絶えず刺激を受けている」
対象である絵画の中の世界を、自己の感覚空間に秩序づけるため一生懸命、線の組み合わせから立体山塊の形を読み取ろうと、そしてその中に進入出来るかどうかの判別を本能的にしているものと思う。考え方によると生命体の自己保存法則ようなものかもしれない。