董巨に従って筆墨の源頭を発出すに戻る
唐宋山水画史におけるイマジネーション  小川裕充著***国華1034
下P31
”明代の優れた監蔵家張*も「黄子久(公望)画石如雲 を以って之を取り溺愛すること甚し”
P33
”中唐の溌墨画家以来400年南宋初期の李氏に至るまで画系の違いを越えて中国山水画史を支えたものは実に素朴極まりない溌墨画家の眼連想のイマジネーションであった”

*****************************************************************************

中国山水画史に深く流れる溌墨画家の眼 もしこれを黄公望が本気で溺愛したのなら、、また王蒙 遡って王維の盤ハクの致が深く関わっていたとしたら、鑑識家批評家の眼にかからないところで密かに伝わっていたとしたら、、否、伝達する必要はない。芸術家の基本的なひらめき(発想の転換)に他ならない。

P31
図の濃墨のみみずが這った、どじょうがうねうねしているかのいくつかの線が、雲の線ではなく、カンディンスキーの言う内的必然性の原理に導かれた自己個有の法則に従う線
であるなら、一瞬にして別の世界が現れる。
濃い線は後から構図のメリハリの為に、視覚に浮き上がらせるために描き起こしたものか
、それとも構図を考える最初の段階で、雲に似せて入れたのか、雲を描くつもりなら最初から濃い線は入れにくいと思われる。丁度この過程がプレフィグラツイオーネンに相当するものだろう。濃い線でも薄い線でもかまわない。以前書いたように(李成の淡墨ではなく、荊浩の筋骨の入った運るに任せた線)を配布させたら、、、、
意が到り興が至り*精神的に昂揚*と霊感がさえわたる状態なら(胸中の逸機が出やすい
意境なら)雲の線であろうと独立した線自体の個有の法則に従うものであろうと、
単に偶然に壁のひび割れの形状であろうとかまわない。