山中人饒舌と自画題語(竹田と玉堂の作画方法を考える)

   微茫惨澹
   浦上玉堂 画集 山陽新聞社 
   文人画家 田能村竹田 自画題語訳解を中心に 竹谷長二郎著 明治書院
   自画題語と頼山陽
新潮日本美術文庫14 浦上玉堂 佐藤康宏著

   
山中人饒舌と自画題語(竹田と玉堂の作画方法を考える)

自画題語「倣諸家山水冊」の中にある「黄鶴山樵は趙松雪を学ぶと雖も、然れども古篆隷の法を用いて披麻皴を作る。****
後学の前人を師法するは、固より論なきなり。然れども其の束縛するところを為さず。
直ちに造化を師として、自ら生面を開く者は、郭河陽の雲頭法、是なり。人力・化工、
互いに参し、交ごも尽きて後、真の山水、始めて出現するを見るべし。」

もしや竹田は骨法を知っていたのではないか?、、、、そうかもしれない。
宗像先生の本3冊の中に、竹田の作画方法についての記述があり先に色を入れる
という箇所があります。それならば色を入れる配置と発想は何に基づかれているのか?
「とくに岩山には不必要な墨線が目立ちます」「***違和感を覚える稚拙な表現に見える。
しかし、これが南画であり、竹田である。」
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山中人饒舌に竹田は玉堂について微茫惨澹の心を用いることを説く。
また自画題語に「玉堂琴士外無知此画之妙者」と題した。図を見ると、もしかして我々が学んでいる方法に近いものがあることを感じさせる。
大阪持明院での玉堂との同宿において、説明し難い妙意について玉堂から感じとった。何について、どんな画についてそれを言うのか、川延先生は「玉堂画の魅力と特徴」で「具体的に竹田がどのような玉堂画に微茫惨澹の妙境を見たのかは分からない。伝統的筆法に囚われない自由な筆触を何度も重ねて墨を塗り込むことで得られる玉堂画の複雑微妙なマチュエールを竹田は微茫惨澹と表現したのではないだろうか。例えば東雲し雪図の雪をはらんだ暗澹たる曇天の表現。墨を滲ませ、重ね、一筆ごとに空の深さを捉えようとするかのような筆使い。雪雲に覆われた空には、雲を透かした漏れる微かな光と厚い雲が生み出す影の微妙な移ろいが見事に表現されている。眼を前景の樹林に移せば、震え身悶えしながら伸び上がり、***」と説明される。

竹田は自画題語(後編四)に言う
「予の画固より拙なり、然れどもその拙なる処は大方名家と雖も亦或いは能はざる
所あるなり蓋し名家の病は多く拙ならざる処にあり」
後人の余の画を観る者をして余の六法に従事するは時に随い興に適せ工拙の外に
在るを知らしめんとするなり」
「我が画は、自ら娯しむに在って、人をして娯ましむるに在らず。毫を運ぶに
矩度無く墨を行るに只だ模糊。」

拙と痴 微茫惨澹
は何によってもたらされるのか?
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王蒙は古篆隷の法によって皴をつくる。
線には線の属性とリズムの流れがあり、縦横に入れた線の配置から山水の塊を表現
するのは線と線との相互作用であり、線から物体を創造する妙意がここにある。
拙とはこの過程で必然的に生じる。組み合わせのちょっと不明 感覚の不連続 
視点を変えるように要請するものかもしれません。

記憶している得意な山水を作画する場合には、線の配置と墨の滲み効果を完全に把握して
いるものは破綻なく仕上がるであろう。しかし竹田の言う拙という完全なものに比べて幾分崩れた下手な部分が必要というのは、裏を返せば作画過程がぶっつけ本番で率意
の筆を用いることにあるのは確かであろう。竹田はその方法が大切だと言っている。

この作画方法をすることによって画人の心が満足するのは確かなようです
玉堂の円柱が林立する異常な風景もこの方向と一致する

玉堂の楕円が乱舞する風高雁斜図は、別図タイトルの通り雲山模糊**
雲頭皴により作成され 飛翔する魂の感覚よるものでしょうか。
竹田の感じ取った微茫惨澹は、画集に載る最優品の東雲*雪図とかであるとは限らず、
日々玉堂が苦心惨澹しながら、線の落書きから見られるべき山水画を矛盾少なく
仕上げようとする心の表れによって作画している様子を見てのことかも知れない。
適当に、作為なくいいかげんに線を縦横に入れて、その線の分布から山水の景を纏め上げようとする場合、
董其昌の言う野戦の師であるのなら、あっちこっちで戦い始めコントロール不能になる場合や、
左右上下空間の整合性が失われるようになることもある。
そう、そのような状況になってもかまわないという心で、自娯のため作図している玉堂を見て竹田はそう云ったのでしょう。
其の表れた結果が拙、痴と表現される感覚を誘うのでしょう。

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龍賢は次のように言う
*** The Compelling Image***
P168
風景画の中で彼の目的の特に明らかにである銘は2つの品質を扱う:
安定性または静けさ(彼が使う言葉は両方の意味を運ぶ)と不思議さ。
「混合物は安定しているべきでありしかし、それは、奇妙で、安定している必要がある」と彼は書く。
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別の銘の中で答える:
「インクと画法が正しいけれども丘と峡谷が普通ならば、
想像力の旅においてものを始めることができる[写真の中に]何もないであろう」。
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それが不思議さを全然持っていないならば、その安定性において価値が全然ない。
不思議さのない安定性は普通の手の仕事である;
未熟な手の安定性のない不思議さ…
あなたが最大限の不思議さを最大限の安定性と結合することができるならば、
それは絵画の最も高い水準である。
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なぜそれが奇妙な像であるにちがいないかについて
彼は簡単を提供し、明らかにする
別の銘の中で答える:
「インクと画法が正しいけれども丘と峡谷が普通ならば、想像力の旅においてものを始めることができる[写真の中に]何もないであろう」。
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ケーヒル先生は時代を越えて深く井戸を掘った者にしか分からない水脈があるといわれる。
P59
「タンのアプローチ、抽象的なフォームへの献身、および歴史のスタイルは、
広いというよりも深い井戸を掘り、従って、同時代人との彼の直接接触を厳しく制限するリスクを冒す人のそれであるけれども、
他の世紀に他の井戸掘り職人と地下水流を通して入会を開く。」
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