南画入門より
麓台先生の遺著、雨窓漫 筆の一節 を抄録してみると、「開合は高より下に至る。賓主歴然。 時あって結聚し、時 あって澹蕩。峰回り路転じ、 雲合し、水分る。倶にこれより出づ。 起伏は近よ り遠に及び、向背分明、時あって高聳、時あって平修」。支那流の 抽象論に あ っては、愚生の如きは全く途方に暮れるばかりである。「先生、何にが開合で すか、 何にが起伏は近より遠に及ぶのですか」と、身近かに教えを仰いでさえ なかなか納得し 難いのに三百年も前に世を去られた師より教 えを請うというこ とは難中の難である。 しかし、幸い以心伝心をもって、この法を会得したので ある。また「画を作る には、 須らく先づ気勢輪郭を顧ふべし、必ずしも好景を 求めず、又必ずしも旧稿に拘らず、 若し開合起伏するところ に於て、法を得、 輪郭気勢までに合すれば、脈絡頓挫転折の ところに天然の妙景自ら出でて古法 に合する事を悟 らむ」とある。この寸言が自分の 研究とピツタリ符合した時の 喜びは、まさに、朝に道をきいて、タベに死するとも 恨とは思わぬことを知った。それ故、以下述べるところは、発見ではあるが発明ではない。
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P128
開合は高より下に至るとあるのは、全幅を分合するに、先ず画布の上辺より下へと
数筆をもってするということである。起伏は近より遠に及ぶということである。
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p232
心が或る大自然の山水を念じ、その雰囲気が先ず心の中に湧き出ることである。
湧き出たその心をただちに大分合の法によって紙上にたたきつける。それから暫時
前景の想の大体、主山の想の大体を心に浮かべて起伏を画き、脈絡、頓挫のところに
自ら妙景を得て暫時一図を構成するのである。
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董其昌の言う皴法を以って之を発するという表現と廉堂先生の「紙上にたたきつける」 という表現は共に共通のイメージがあり中唐の溌墨画家の墨を発するのではなく 皴を発する、すなわち線を溌するということになる。
また雨窓漫筆に言う「尤妙は過接暎帯の間にあり」という部分がまさしくガントナー先生 の言うプレフィグラツィオーネンの複合体に他ならない。
我々は山水画を作るため、自ら不定形の触発形式を「龍の斜、正、渾、砕、隠、現、断、続をして、 その中に活溌々地ならしめば」と表現される龍脈を溌するのである。
元々これらは現象を支える本質、物事の起源ではない。ただ表れた形象にすぎない。
この触発形式を溌する方法に各自の心の修養が必要とされ、体用、自在の変化、
過接暎帯の間に自らを埋めなければならない。


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