文人画論集  中田勇次郎  中央公論社
石濤の「画語録
P166
「手にまかせて筆をふるえば、山川人物、鳥獣草木、池シャ楼台など、すべて形を取り、 勢をうつし、生物を写して意をはかり、情を運らして景をうつし、外面に露れたものは 顕かにし、内部に含まれたものは隠すようにする。他人にはその画がどのようにして 出来たかはわからないが、えがかれた画は、心のはたらきと一致する。」
P176
「私は外物に対しては、外物の蔽うがままにし、俗塵に対しては、俗塵の汚すがまま にすれば、心を苦しめることはない。心を苦しめることがなければ、ひとりでに画ができあがる。*****こうして画をかけば、測り知ることのできない微妙な境地に入ることができる。」

呉昌碩、斉白石の画論
p215
古くから造化を師とすべしという説はあるが、実際上は形似の学習から入門するために、 ついに形似を脱出することができないものが多い。石トウはこれをさらに推しすすめて、 造化と一体となって創作する原理を立てた。そののち文人は石トウの画論に刺激されて 古人の写意をさらに強い気ハクのあるものとしている。
P216
呉昌石において、もっとも高く評価されるものは、近代の清新な気魄のあふるるばかり 強烈なことである。色調、構図から画題、題詩すべてが、雄偉であり斬新であることである
p217
斉白石
「画をえがく妙味というものは、似ると似ないとの中間にある。似すぎると媚俗にいやらしくなるし、似ないと世を欺くことになる」
p218
「一たい画の道は、本来、寂寞の道である。画を志す人は、心境が清逸でなければならない。名利を慕うことなくして、はじめて画にたずさわることができるのである。古今の 人の長所は慕うてこれに肖せることはしても、これを誇ってはならないし、また、師法に 短所があれば、これを捨ててしかも誹ることはしない。そうしてのち、ふたたび天地の 造化を観る。このようにして腕底におのずから鬼神がやどるものである」

江山別意