美作国一の宮 中山神社 春季大祭 お田植祭 津山市一の宮 2005.4.29 |
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中山鳥居 参道入り口にある高さ約11mある花崗岩製 の鳥居は中山鳥居として鳥居の形式の 一つとなっています。 横木は上から笠木、島木、貫(ぬき) と呼ばれ、中山鳥居は、貫が両柱より 出てないのが特徴。 寛政3年(1791)の作。 額が修復中なのか外されています。 鳥居左の後ろの木は樹齢500年の椋の木 鳥居の前には樹齢800年の 祝木(いほぎ)のケヤキも健在で当社の 歴史を物語っています。 |
神 門 元津山城二の丸の四脚門、廃城後の 明治7年(1874)に移築。(左案内板参照) 当神社の案内書の写真を見ると中山鳥居 からこの神門にいたる参道約150mは 鬱蒼たる社叢として荘厳な神域の 景観を呈していますが、 昨年の台風の被害か倒木、伐採の 跡が目立ち、一転明るい神域に なっています。 |
沿 革 主祭神は鏡作神(かがみつくりのかみ)。創立は慶雲4年(707)、平成19年には1300年となる由緒ある古社。 貞観6年(864)官社に列し、延喜式では美作国唯一の名神大社でこの国の一宮とされ、永保元年(1081)には正一位の神階を授かる。 建武中興敗れての役400年間は、美作国中戦乱の巷と化し、兵火で宝物など悉く焼失、永禄2年(1559)に再建され明治4年(1871) 国幣中社となる。戦後社格制度は廃止されたが、現在も、鍛金・治工・採鉱等の守護神、農耕・牛馬の守護神として広く崇敬されている。 社 殿 現社殿は、栄禄2年(1559)の再建、左から本殿・釣殿・拝殿。本殿は単層入母屋造妻入・桧皮葺にて間口5.5間(約10m) 奥行5.5間、建坪41.5坪の宏壮雄大なもので大正3年国指定重要文化財。この本殿に幅2.5間(約4.5m)入3間 (約5.4m)の向拝を附し、間の釣殿から入母屋造平入・桧皮葺の拝殿へと連ねた形式。 この形式を他地方に例のないことから「中山造」と呼び美作の多くの神社の模範とされている。 当社の往時の隆盛振りを表すものとして、平安後期の歌謡集の「梁塵秘抄」では関西における大社として 安芸の厳島、備中の吉備津と共に肩を並べており、また蒙古襲来の元寇などの国家非常時には、 勅命により全国の七カ国の一の宮の一社として選ばれ国家安穏を祈願したとあります。 ‥中山神社略記より‥ |
→手動でかわります。
鍬振りの神事
瑞垣門前に安置された鳳輦に御神霊を移し、五穀豊穣を祈念して、宮司等神事の後、氏子の人達に
より鍬振りの神事が奉納されます。
石畳の両側に雌雄の獅子(獅子方各6人)が向かい合い、横笛・太皷も両側に並び、烏帽子に
白色の白丁の装束で木製の鍬を持った鍬方12人が石畳を水田と見立てて、3列になり、
笛と太皷に合せ鍬を振り上げたりぐるっと回したり、
足を躍らせるように鍬を打つ仕草を数回繰り返します。
鍬振りの神事は鳳輦の前と境内の総神殿の前で古式床しく行われました。
猿 神 社 当神社の後方の山の岩肌に末社の猿神社が祀られています。 この小さな社は平安時代の説話集今昔物語26巻に登場する 中山の猿の霊を祀るとされ、現在は猿田彦神として祀られています。 牛馬の安産守護の神として信仰を受け、今も縫いぐるみの小猿を 奉納する風習が残っているとあります。 美作の国の猿神退治 今は昔、美作の国の中参という神社(中山神社)があってご神体は 生きた猿神様。毎年の例大祭に未婚の娘を生け贄に出す風習が 長年続いていて当事者の親娘らは嘆き悲しんでいた。 これを知った東国の猟師が生け贄の娘に代わって決死の計略により 猿神に生け贄の風習を止めさせ、平穏な世になったという説話。 |