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北條早雲の出自については、諸説紛々でした。 現に私所有の昭和41年発行の百科事典を見ても伊勢国 というが不明とあります。 戦後になってクローズアップされ、厳密な調査により 定説となったのが「備中伊勢氏説」。 早雲は永享4年(1432)備中高越城主伊勢新左衛門 盛定の子として生まれ、伊勢新九郎盛時と名乗り、 青年期まで荏原庄(岡山県井原市)で武芸と学問に励み、 33歳で京都伊勢氏の養子となって上洛したと 年表にあります。正に中央の舞台に出るのは遅咲きですが、 昇竜のごとく頭角を現し、関東を制覇し領民から 名君として慕われ、戦国大名の魁になりました。 井原市には早雲に関わる史跡や文化財が数多くあります。 全部ではありませんが、 各所にたつ説明板や石碑などをご紹介します。 (左の写真は高越城址より南東を望む 2006.4.7) |
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旧山陽道方面より高越山(172m)を望む。 高越城址公園として整備され 山頂から360度の展望が開けています。 井原鉄道「早雲の里荏原駅」から4キロ。 |
頂上の一の郭跡あたりに建つ「北條早雲 生誕之地」の石碑。背後は忠魂碑。 |
高越城址公園案内図 | 高越城の起こりと 早雲 |
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高越城主、伊藤新左衛門盛定(早雲の父)が永享2年(1430)建てた伊勢氏の菩提寺、早雲は開祖の古潤仁泉和尚に武芸と学問を 教えられたと伝えられており、早雲は故郷を出てからも、39歳頃帰郷して 法泉寺を改修、造営し、井原市神代町には薬師如来を祀っています。 また53歳ごろ伊豆の修善寺に納められていた「摺り袈裟」を貰いうけ法泉寺に寄進しています。 法泉寺にある法泉寺保護の早雲筆「禁制」は備中出身説を裏付ける貴重な資料となっています。‥‥(井原市観光協会説明書参照) |
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寺院には三つの門があり、仁王門、中央の三門 から石段を上がって写真の左右に広がる 回廊の門があります。 寺院全体を遠景で見ると城郭の佇まいです。 |
法泉禅寺の額のある本堂、築後600年 近くになると近所の人に聞きました。 右側にに庫裏、左側に禅堂(今は違う建物)で 禅院の様式をなしています。 |
背後の裏山から見た全景 |
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| 史跡指定の説明板 | 本堂の前に建つ顕彰碑の説明板 これには備中伊勢氏説を論証づけた 歴史学者らの名前が記されています。 |
境内にある室町時代の五輪塔、早雲(左)と 父盛定 の供養塔と伝えられています。 |
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高越城址顕彰会を中心とした実行委員会の主催で「第17回井原市早雲まつり」が高越城址公園一帯で開かれました。 地元の国会議員や市長の祝辞の後、早雲踊りや子供神楽などのアトラクションがあり、また出店も賑わい、 送迎バスで次々と観光客が訪れてきました。 特に早雲踊りは太鼓一つで歌い手の語り風の上手い節回しに乗って、踊り手は郷土の偉人武将早雲に心酔したかのように 延々20分ほど輪になって素朴に踊る姿が印象に残りました。 小田原城を本拠として早雲以降五代続いた小田原では市の一大観光イベントとして行う「小田原北條五代祭り」のス ケールには及ぶべくもありませんが、 井原早雲祭りは、餅投げが終わる頃雨となりましたが、心温まる手作りの祭りでした。 なお、早雲及び井原市の歴史・文化を知るにはこちら井原市観光協会のサイトへどうぞ |
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