Homo Sapiens[知恵のある人]同士の殺戮
旧石器時代の穴居人が初めて石で仲間を殴り殺して以来、「知恵ある霊長類」は単独あるいは集団で
仲間を殺しあってきた。
私たち人類は、自然の驚異に立ち向かい仲間の命を守るよりも、その「知恵」の大部分を仲間の命を
大量に、より残忍に、より効率的に奪うことに使ってきたのではないかと悲観せざるを得ないほど残酷
な歴史を持っている
The Random House Dictionnary of the English Language,Second Edition(1987)
- 殺戮
- [BC 490]マラトンの戦い
- アテナイとペルシャの戦い(6600人)
- [BC 218]ハンニバルのアルプス越え
- カルタゴとローマの戦い(20,000人)
- [AC 64]キリスト教徒の迫害
- ローマ皇帝ネロによる未公認のキリスト教徒迫害(?人)
- [AC 70]エルサレムの攻囲
- ローマ皇帝ティトウスによるエルサレム・ユダヤ人過剰殺戮(6,000人)
- [AC 532]コンスターチノーブルのニーカーの反乱
- 党派どうしの争いを鎮めるための暴徒の殺戮(30,000人)
- [AC 1282]シチリア島の晩課の虐殺
- フランスのシチリア王国圧制による市民の反逆(フランス人虐殺)(2,000人以上)
- [AC1402]黒人奴隷貿易の始まり
- ポルトガルのエンリケ王子がアフリカ沿岸より原住民多数を捕らえて奴隷とする
[1442-18??]黒人奴隷の売買を始める(20,000,000人)
- [AC1459]ブラド・ドラキュラの残虐行為
- ワラキア国領主ブラド2世ドラキュラの暴君にして狂人な蛮行(50,000-100,000人)
- [AC1478]スペインの宗教裁判
- 十五世紀のスペインは、カトリック教徒の専制君主により統治していたが、ユダヤ教徒たちに
対する商業上の妬みから、ユダヤ教徒・イスラム教徒およびこれに疑いの者・ある種の犯罪者などを拷問による自白で火あぶりなどの刑を実施(90,000人)
- [AC1514]ハンガリー農民の反乱
- 十字軍参加の中止に対する農奴の反乱と鎮圧(70,000人)
- [AC1520]テノティトランの悲しみに包まれた夜
- スペイン人コルテスによるアステカ財宝の略奪と逃走(?人)
- [AC1520]アステカの人身御供
- スペイン人による南アメリカに於けるはじめてのアステカ人の残酷な宗教儀式の発見
通常、敵の兵士の捕虜の中から犠牲者を選び、アステカの民のメッセージをもって、神々のところへ旅をすると信じていたようである(?人)
- [AC1521]疫病とスペインのテノティトラン征服
- スペイン人コルテスを追い出した後、スペイン人兵士の死体から天然痘が広まり、
結局200万から1500万人がこの病気のために死んだ、そしてこのあと再びコルテスが装備新たに攻め込んでアステカ陥落(10万-20万人)
- [AC1524-1525]ドイツ農民戦争
- 長い間の圧制による憎しみとマルティン・ルターの宗教改革をきっかけに反乱を起こす(5,000人)
- [AC1546]ヴァルド派の大虐殺
- フランスのカトリックとプロテスタントとの紛争であり、フランソワ一世がプロテスタントヴァルド派
の虐殺を命じ、カトリック側による大量虐殺に発展する(?,000人)
- [AC1562]フランス、ヴァシーの虐殺
- フランスのカトリックとプロテスタントとの紛争の一端、この後、36年間宗教戦争(60人)
- [AC1570]ノブゴロードの虐殺
- ロシア皇帝イワン雷帝による、殺戮行軍(60,000人)
- [AC1572]聖バーソロミューの虐殺
- フランスシャルル九世の母の陰謀により、カトリック(王党派)を焚付け、プロテスタント
(ユグノー教徒)の虐殺行為、しかし暴徒化し、その他の人々にも波及(?0,000人)
- [AC1638]島原の乱
- キリスト教の伝播を防ぐため、厳しい処置を行っていたが、ついに島原半島の農民が反乱を
起こす(30,000人)
- [AC1685]血塗られた巡回裁判
- イングランド王ジェームス二世に対するモンマス公の反乱は失敗に終わったが、
その加担者を裁くために任命された判事、ジョージ・ジェフリーが囚人に行った残虐行為(320人)
- [AC1692-1696]セイラム魔女裁判
- マサチューセッツ州セイラムにおける、幼い子供が証人としての魔女裁判
- [AC1780]ゴードン暴動
- 英国議会が反カトリック法を廃止しようとカトリック教徒救済法案を通過させた時、反カトリックの暴動(400人)
- [AC1792]ロシア、ユダヤ人を迫害
- ロシアの女帝エカテリーナが「囲い地」にユダヤ人を住まわせ、出ることを禁じた
その結果、多くのユダヤ人が失業し、悲惨な困窮を送る
[1903-1906]1881年皇帝アレクサンドル二世が暗殺されると、矛先がユダヤ人に向けられ大量殺戮が頻発する
- [AC1792]フランス、9月の虐殺
- フランス革命の暴徒による、貴族・王族の召使・聖職者など収監された監獄を襲った(1,200人)
- [AC1793-1794]フランス、恐怖政治
- フランス革命後の人民の憎悪と恐怖は、革命政府内の過激分子に火をつけ、
革命の敵を裁判にかけるために公安委員会が設置される「ギロチン裁判」
(17,000人処刑)(500,000人)
- [AC1812]モスクワ炎上
- 1812年9月14日ナポレオンはモスクワ・クレムリン宮殿に入る、
ロシア軍が囚人によりモスクワ市に火災を起こす、一ヵ月後、ナポレオンは営舎と食料を
拒否され、ロシアからの悲惨な撤退を開始した
- [AC1830]フランスの7月革命
- シャルル十世が、憲法に反して独裁制の変更を加えたための暴動(1,000人)
- [AC1836]アラモ砦の陥落
- 後にテキサス州となる地方の住人が、その地域を支配していたメキシコ政府に反乱を起こす
サン・アントニオのフランシスコ会宣教団の伝道所アラモにサム・ヒューストン、ジム・ボーイ
デービー・クロケットによって守られたアラモは、サンタ・アンナ将軍の四千の軍と戦う(1,500人)
- [AC1848]フランスの2月革命
- ルイ・フィリップ国王と政治の改革を求める群衆との騒動
フランス第二共和制の制定
- [AC1850-1860]太平天国の乱
- 宣教師により配布されたプロテスタントの小冊子を読んだ洪秀全は、キリストの弟で世界を救う幻を見る
[1847]洪秀全は、宗教的・軍事的運動として団体「太平天国」を設立、三年後には信者数三万となる
[1850]広西省を制圧
[1853]湖北省武漢を制圧、反乱軍百万となる
[1853]三月、艦隊を組んで揚子江を下り、南京を制圧
[1856]反乱軍同士の殺し合い
[1860]上海を征服しようとした反乱軍は悲惨な敗北を帰し、南京で降伏する
この反乱で清王朝はひどく弱体化する(2,000,000人)
- [AC1857]セポイの反乱
- 植民地支配に対する不満が、イギリス軍現地人(ベンガル人)軍よりおこり、
デリーの占拠、やがて八万の現地人兵士と一般市民を巻き込む
[1858]イギリスはやっと反乱を制圧、イギリス政府は東インド会社から直接統治へ
- [AC1862]アンティータムの戦い
- アメリカ・メリーランド州・アンティータム運河近くのシャープスバーグでの
南北戦争(33,110人)
ちなみに、アメリカ南北戦争による死傷者数は[約1,000,000人]
- [AC1863]ニューヨーク市での徴兵暴動
- 南北戦争において新兵補充のための連邦政府最初の徴兵法が可決されたが、
条件付で金持ちと黒人は免除になるため、ニューヨーク州アイルランド労働者からの
強烈な怒りが起こり、暴動と化す(1,200人)
- [AC1864]ピロー砦の大虐殺
- 南北戦争において南軍のネイサン・フォレスト将軍は、テネシー州メンフィス近くの
北軍のピロー砦を降伏、このとき北軍の兵士(600人)はほとんどが黒人(400人)であった為、
冷酷にも虐殺する(300人)
後に彼は、秘密結社クー・クラックス・クランの偉大な呪術師となった
- [AC1876]リトル・ビッグホーンの戦い
- スー族・シャイアン族・ハンクパパ族など、いくつかのインディアンの部族の戦士
たちが、指定居住地に出頭するようにという合衆国政府の命令に反抗し、祈祷師
シティング・ブルの指図に従うことに決める
まもなく、スー族戦士(3,000人)が、リトル・ビッグホーン峡谷沿いに野営した
カスター将軍率いる騎兵隊(700人)が攻撃を開始したが、相手のほうが武器・人数共に
勝り、全滅する
- [AC1916]ヴェルダン攻防
- 北フランス、ムーズ川沿いに位置する、ヴェルダンの要塞と、そして、そこから数マイルに
渡っての防備要塞は、第一次大戦中、連合軍側の西部戦線の要であった。
ヴェルダンの町には防壁がめぐらされ、六十もの堡塁が威嚇的な装いで並んでいた。
堡塁の内でも、その二十は補強コンクリートでできた巨大な構造物であった。
ドイツの将軍エリッヒ・フォン・ファルケンハインは、この一見難攻不落の要塞を
ドイツ軍猛攻の中心として選んだ。
ヴェルダンの正面13キロに渡って1220以上もの重火器を集結させ、そして、2月21日未明、
猛烈な一斉攻撃を要塞に向けて起こし、12月に終結(1,000,000人)
- [AC1917-1934]ロシア革命
- [1915]第一次世界大戦では(1,000,000人)
[1917-]帝政ロシア政府の弱体化・食糧不足が全国規模の暴動の引き金
三月、皇帝ニコラス二世の退位し、暫定政府の発足
四月、レーニンは、暫定政府打倒を呼びかける、ロシア共産党員はすぐに20万人まで膨れ
上がり、兵士たちは大戦の終結を、農奴は土地所有、労働者は工場の自主管理、国民は食料を要求した
七月、凶暴化したデモ隊であふれる
11月、ロシア共産党が政権を掌握し、ドイツと講和条約を結び、戦争から撤退する
1918年3月~8月、共産党と反共勢力による、無差別死刑執行(100,000人)
[1917-1921]チフスの流行(3,000,000人)
[1921-1922]飢饉(?,000,000人)
[1923]マラリアの流行(?,000,000人)
[1932-1934]集団農場化の強制、農奴による家畜殺しが原因で大規模飢饉(5,000,000人)
[1934]独裁者スターリンは、共産党を問わず広範囲の粛清を始め、何百万という、役人・その家族、 その他の人たちの収監、強制国外追放、死刑に処せられた
- [AC1940]カティンの森の大虐殺
- [1939]ソ連のポーランド侵攻・占領に対する抵抗運動を阻止しようと、独裁者スターリンは
1万4、5千人にも及ぶポーランド将校と有力市民をソ連領奥深くの強制収容所に閉じ込める
[1940]このうちの4千人以上がスモレンスク近郊のカティンの森に連行され、首筋に一発ずつ
弾丸を撃ち込み、冷酷無残に惨殺(14,000人)
[1941]ヒトラーの軍隊が、ポーランド将校の共同墓所を発見し、世界に向けて、スターリンと
その殺戮行為を告発したが、逆にナチスに罪を着せる
[1990]ソ連は責任を認め、この残虐な大虐殺を謝罪する
- [AC1940]ロンドン大空襲
- [1940]6月フランス陥落の後、イギリスの港と軍事施設に対し爆撃を始める
[1940]8月ロンドン大空襲の開始(14,000人)
[1940]11月14日から、爆撃の対象を各地方都市に移す
[1940]12月29日ロンドンに何千という焼夷弾を落とす
[1941-]空襲爆撃はその後、終戦まで散発的に続く
[1944]連合軍がフランスのノルマンディ海岸に到着すると、V-1ロケットにてロンドン攻撃
さらに高性能のV-2ロケットがイギリスの各目標地点に向けて発射
- [AC1941]真珠湾攻撃
- 12月7日ハワイ・真珠湾におけるアメリカ海軍基地には、軍艦94隻・軍機400機近くが
待機していた
日本軍の艦載機181機による奇襲攻撃が始まる(2,510人)
アメリカ政府は攻撃の翌日、日本に宣戦布告する
- [AC1945]硫黄島の決戦
- 2月19日アメリカ海兵隊7万人による、上陸作戦を開始
敵を一掃する作戦は6月まで続けられた、アメリカ軍は2万7千人の死傷者(47,000人)
- [AC1945]広島・長崎への原爆投下
- 狂信的な日本政府は、大敗北を前にしてさえ降伏の最後通牒を拒否する
8月6日原子爆弾[4t]を広島に投下、それでも日本は降伏しなかった
8月9日プルトニウム爆弾[4.5t]を長崎に投下、ようやく日本は降伏し、
長い第二次世界大戦の終結をみる(500,000人)
- [AC1956]ハンガリー革命
- ソビエトの指導者フルシチョフがスターリンの圧制政治を非難したのに勇気づけられ
ハンガリー市民は、政治改革と自由選挙を要求し、自国でのスターリン体制に反抗し始めた
[10月23日]無数のデモ隊がブダペストに集結し、共産党指導者エルネ・ガロの演説を聞いて
いた、ガロは彼らを非難し、間もなく、国家安全守備隊がデモ隊に向け発砲を開始した
そして、すぐ近くの軍需工場にいた兵士や労働者たちにも守備隊を支援するように召集が
あったのだが、彼らは逆に、デモ隊に賛同し、怯え・怒る群集に武器を提供する
一夜にして、革命派の指導者イムレ・ナギが連立政権を組織し、
[11月1日]中立国として認知されるべく国連に打電
[11月4日]ソビエト軍によるハンガリー侵攻により、再び共産党の支配下になる
- [AC1978-1979]イラン革命
- パフラヴィー朝下のイランは1953年のモハンマド・モサッデク首相失脚後、西側陣営の国際戦略
のもとでアメリカ合衆国の支援を受けるようになり、西欧化による近代化政策を取りつづけてきた。
国王モハンマド・レザー・シャーは1963年に農地改革、森林国有化、国営企業の民営化、婦人参政権、識字率の向上などを盛り込んだ「白色革命」を宣言し、上からの近代改革を推し進めた。
しかし、こうした政策は、西欧化により地位を脅かされた宗教界や、改革の標的とされた地主など
旧世代の富裕層の反感を買った上、政策の実行が強権的だったことから、人権を問題とする知識人や学生の反発もあった。
1978年1月、フランス・パリに亡命していた反体制派の指導者で、十二イマーム派の有力な法学者のひとりであったルーホッラー・ホメイニーを中傷する記事を巡り、イラン国内の十二イマーム派の聖地コムで暴動が発生、宗教学生と警官隊の衝突した。この事件以降、国内各地で反政府デモと暴動が多発する事態となった。
4月1日、イランは国民投票に基づいてイスラム共和国の樹立を宣言し、ホメイニーが提唱した「法学者の統治」に基づく国家体制の構築を掲げた。
イスラム共和国体制は、アメリカの支援を受け近代化を行っていたパフラヴィー朝を倒したことや、西欧的な近代化の価値観を全面的に否定したことから、アメリカをはじめとする西側諸国とイランとの関係が悪化した。
特に、11月にはアメリカ大使館占拠事件が起こり、アメリカとの関係は断絶寸前となる。
一方、周辺のアラブ諸国にとっては、十二イマーム派を掲げるイランにおける革命の成功は、十二イマーム派の革命思想が国内の十二イマーム派信徒に影響力を及ぼしたり、反西欧のスローガンに基づくイスラム国家樹立の動きがスンナ派を含めた国内のムスリム(イスラム教徒)全体に波及することに対する怖れを抱かせ、イランは周辺アラブ諸国からも孤立することになった。
1980年、長年国境をめぐってイランと対立関係にあり、かつ国内に多数の十二イマーム派信徒を抱えてイラン革命の影響波及を嫌った隣国イラクがイランに侵攻、イラン・イラク戦争が勃発した。
イランの猛烈な反撃によりイラクが崩壊し、産油地域が脅かされたり、十二イマーム派の革命が輸出されたりすることを懸念したアメリカがイラクに対する軍事支援を行った結果、この戦争は8年間の長きにわたり、イランの革命政権に対して国内政治・国内経済に対する重大な影響を及ぼした。
(注:イランの歴史を参照のこと)
- [AC1989]天安門事件
- 天安門広場では、胡耀邦の追悼集会を契機として、1989年4月ごろから学生が民主化を
求めてストライキを始めたが、当初は学生だけの問題と報道され、中国国内でも重要視
されなかった。
運動の指導者は、漢民族出身の王丹や柴玲、ウイグル族出身のウーアルカイシ(吾爾開希)などである。
この活動が全国的に広がっていったのは、天安門広場でカンパを集め始めたころからであり、天安門広場は、次第に意見を自由に発表できる場へと変貌していった。
この事態に恐れをなした当局は6月4日、ついに軍事力でこのデモの参加者を無差別に虐殺する暴挙に出た。(319人)
天安門事件の経過は世界各国で報道され、欧州諸国は対中兵器輸出を禁止するなど、世界中から多くの非難が浴びせられた。
- [AC1992]インドで宗教騒動
- インド北東部のアヨディアにあるイスラム寺院をヒンドゥー教徒の過激派が破壊したことを
契機に、1000人以上が死亡し、数万人が負傷するという大規模な暴動
- [AC1993]インドで連続爆弾テロ
- ボンベイで再び暴動が起こり、数百人が死亡した。(273人)
- [AC1996]イスラエル軍、カナ駐屯基地を砲撃
- (注:イスラエルの歴史を参照のこと)
- 疫病
- [BC430-427]アテナイの疫病
- 病名:発疹チフス 死者数:(30,000)
- [AC1347-1351]ヨーロッパのペスト(黒死病)の蔓延
- 病名:腺ペスト 原因:商船によるアジアからのネズミ 死者数:(推計25,000,000)
- [AC1521]疫病とスペインのテノティトラン征服
- 病名:天然痘 原因:スペイン人による持込 死者数:(2,000,000-15,000,000)
- [AC1665]ロンドン、ペスト大流行
- 病名:ペスト 死者数:(推計100,000)
- [AC1816]夏が来なかった年
- 原因:ジャワ島タンボラ火山の噴火 副原因:飢饉 病名:チフス 死者数:(アイルランド推計50,000)
- [AC1900-1907]眠り病
- 場所:ウガンダ・ヴィクトリア湖周辺 病名:トリパノソーマ病(風土病)
原因:寄生虫による中枢神経破壊 媒体:ツエツエ蠅
死者数:(200,000)
- [AC1918-1919]インフルエンザ
- 発生元:アメリカ・カンザス州軍訓練基地
病名:スペイン型インフルエンザ
死者数:
- ロシア
- (450,000)
- イタリア
- (375,000)
- イギリス
- (228,000)
- インド
- (5,000,000)
- アメリカ
- (550,000)
- [AC1976]エボラ出血熱
- フィロウイルス科のエボラウイルス(Ebola virus)を病原体とする急性ウイルス性感染症。
[1976]発生元:アフリカ中央部(スーダン、ザイール) 死者数:(430)
[1979]発生元:アフリカ中央部(スーダン) 死者数:(23)
[1995]発生元:アフリカ中央部(ザイール) 死者数:(244)
[1996]発生元:アフリカ中央部(ガボン) 死者数:(45)
[2000-2002]発生元:ウガンダ、ガボン、コンゴ共和国 死者数:(207)
- [AC1994]ザイール難民キャンプでコレラ発生
- 発生元:コンゴ民主共和国(旧ザイール)のキサンガニとウブンドゥの間にある3つの難民キャンプに住む9万人のルワンダ難民
病名:コレラ
死者数:(11,000)
- 災害
- [BC1628]テラ島火山の大爆発
- 位置;地中海サントリーニ島 死者数:(?)
- [AC 64]ローマの大火
- 時代:ネロ皇帝 期間:6日 死者数:(?)
- [AC 79]ベスビオス火山の大爆発
- 時代:ローマ時代 位置;ポンペイ 死者数:(?)
- [AC 365]アレクサンドリアの震災
- 震源;地中海 範囲;シチリア島、ギリシャ、エジプト 死者数:(?)
- [AC 526]アンテイオキアの震災
- 震源:シリア 死者数:(250,000)
- [AC1293]鎌倉大地震
- 場所:神奈川県南部 [M?] 死者数:(20,000)
- [AC1556]華県地震
- 場所:中国、陜西省 [M?] 死者数:(830,000)
- [AC1631]ベスビオ山の噴火
- 位置:イタリア 死者数:(?)
- [AC1666]ロンドン大火
- 火元:ロンドン橋とロンドン塔の間プディング通のパン屋
被害:13000の家、87の教会、税関、刑務所、取引所、44の会社、4の橋
死者数:(?)
- [AC1667]カフカスの地震
- 場所:ソ連、カフカス [M?] 死者数:(80,000)
- [AC1669]エトナ山の噴火
- 位置:シチリアのエトナ火山 死者数:(20,000)
- [AC1727]イランの地震
- 場所:イラン北西部 [M?] 死者数:(80,000)
- [AC1755]リスボン地震
- 場所:ポルトガル [M?] 死者数:(60,000)
- [AC1780]イラン北西部の地震
- 場所:イラン北西部 [M?] 死者数:(100,000)
- [AC1783]ラキ火山の噴火
- 位置:アイスランド 特徴:およそ25Kmの長さの火口列が続くラーカギーガル
8箇月も続いた噴火により、有史上世界最大の溶岩を流出した。
この噴火によって発生したガスや火山灰は牧草地を毒物で死滅させ、農業に壊滅的な荒廃を
もたらした結果、アイスランド最悪の飢饉となる 死者数:(10,000)
- [AC1789]トルコの地震
- 場所:トルコ [M?] 死者数:(50,000)
- [AC1812]ベネズエラの地震
- 場所:ベネズエラ [M?] 死者数:(20,000)
- [AC1814]フィリピン・ルソン島のマヨン山
- 死者数:(1200)
- [AC1815]インドネシア・スンバワ島のタンボラ山
- 死者数:(90,000)
- [AC1822]トルコの地震
- 場所:トルコ・シリア [M?] 死者数:(20,000)
- [AC1845-1848]アイルランドのジャガイモ飢饉
- 背景:19世紀はじめ、イングランドによって土地を奪われたアイルランド人は小作農にならざるを得なかった。恒常的な食料不足に悩んでいたアイルランドで、おもに麦を栽培していた小作農家たちは、地主に納めなくてもよく、荒れた土地でも栽培できるジャガイモの栽培を始めた。ジャガイモの栽培は急速に普及し、農民たちの主食となっていった。
1845年から1849年の5年間にわたってヨーロッパ全域でジャガイモにPhytophthora infestans菌による感染症であるジャガイモ疫病が大発生し、壊滅的な被害を受けた。
死者数:(1,000,000以上)
追記:飢饉の際のイングランドの無策はアイルランドのイングランドへの不信感を増幅させ、宗教政策ともあいまって独立運動のきっかけとなった
- [AC1868]アリカ地震
- 場所:ペルー・チリ [M?] 死者数:(25,000)
- [AC1868]エクアドル地震
- 場所:エクアドル・コロンビア [M?] 死者数:(55,000)
- [AC1872]ベスビオ山の噴火
- 位置:イタリア 死者数:(?)
- [AC1887]黄河の氾濫
- 位置:河南省審陽 死者数:(1500,000)
注:過去2000年間で1500回余りの氾濫洪水を発生させた
- [AC1894]ヒンクリー、山火事
- 位置:アメリカ・ミネソタ州ヒンクリー町 死者数:(600)
- [AC1896]セントルイスの竜巻
- 位置:アメリカ・ミズーリ州セントルイス 死者数:(306)
- [AC1896]明治三陸地震津波
- 場所:岩手県沖 [M8.?] 死者数:(27,000)
- [AC1902]プレー山の大噴火
- 位置:西インド諸島・マルティニーク島 死者数:(32,000[火砕流])
- [AC1905]インド北部地震
- 場所:インド北部 [M7.5] 死者数:(20,000)
- [AC1906]クリエール炭鉱爆発
- 位置:北フランスのパ・ド・カレ地方 死者数:(1,060)
- [AC1908]メッシナ地震
- 場所:イタリア、シチリア島 [M7.0] 死者数:(110,000)
- [AC1912]タイタニック号
- 原因:暖冬の為、北極の氷山から記録的な数の氷魂が崩れたため
結果:氷山との接触 死者数:(1,517)
- [AC1915]イタリア地震
- 場所:イタリア中部 [M6.9] 死者数:(33,000)
- [AC1917]インドネシア地震
- 場所:インドネシア、バリ島 [M?] 死者数:(15,000)
- [AC1919]ケルート山の噴火
- 位置:インドネシア 死者数:(5,100)
- [AC1920]海原地震
- 場所:中国、寧夏 [M8.5] 死者数:(220,000)
- [AC1923]関東地震
- 場所:神奈川県-相模湾 [M7.9] 死者数:(140,000)
- [AC1925]大竜巻
- 位置:アメリカ[ミズーリ・イリノイ・インデイアナ] 死者数:(689)
注:最大距離600km
- [AC1930]ムラピ山の噴火
- 位置:インドネシア・ジャワ島 死者数:(1,300)
- [AC1935]パキスタン地震
- 場所:パキスタン [M7.5] 死者数:(25,000)
- [AC1939]エルジンジャン地震
- 場所:トルコ中部 [M8.0] 死者数:(33,000)
- [AC1939]チリ地震
- 場所:チリ中部 [M8.3] 死者数:(28,000)
- [AC1944]ベスビオ山の噴火
- 位置:イタリア 被害:サン・セバスティアーノ村の埋没 死者数:(?)
- [AC1948]イラン地震
- 場所:トルクメニスタン・イラン [M7.3] 死者数:(20,000)
- [AC1948]福井地震
- 場所:福井県北部 [M7.1] 死者数:(3,800)
- [AC1950]内陸最大級地震
- 場所:インド・中国、チベット [M8.6] 死者数:(4,000)
- [AC1952]ロンドンの殺人霧
- 原因:暖かい空気の層が地表近くで動かずに冷え込んだ為、排煙が霧と混ざり合って
濃い黄色のスモッグとなり、視界をゼロにした 死者数:(8,000)
- [AC1960]モロッコ地震
- 場所:モロッコ [M5.9] 死者数:(12,000)
- [AC1960]チリ地震
- 場所:チリ南部沿岸 [M9.5(注:観測史上最大)] 死者数:(2,200)
- [AC1963]イタリア地震
- 場所:イタリア、シチリア島 [M?] 死者数:(80,000)
- [AC1967]ソ連原子炉メルトダウン
- ソ連の原子力砕氷船レーニン号による世界最初の原子炉溶融事故 死者数:(?)
- [AC1970]バングラデシュのサイクロン
- 位置:東パキスタン・ガンジス川デルタ地帯 要素:風速60m,高波 死者数:(概算200,000-500,000)
- [AC1970]ペルー地震
- 場所:ペルー北部沿岸 [M7.8] 死者数:(67,000)
- [AC1972]ローデシアの炭鉱爆発
- 位置:ローデシア北西部のワンキー炭鉱 死者数:(427)
- [AC1974]トルコ航空機墜落事故
- 墜落位置:フランス・パリの北42Kmの森 死者数:(346)
- [AC1976]イタリア、スヴェソの化学薬品爆発
- 場所:イタリア・ミラノ・ICMESA化学工場
汚染物質:ダイオキシンを含む化学物質 死者数:(?)
- [AC1976]唐山地震
- 場所:中国、河北省 [M7.8] 死者数:(240,000)
- [AC1976]グアテマラ地震
- 場所:グアテマラ [M7.5] 死者数:(23,000)
- [AC1977]ラブ・キャナル水源汚染
- 場所:ニューヨーク州・ナイアガラ・フォールズ近郊のラブ・キャナル
原因:ある化学薬品会社が約2000tonの毒性産業廃棄物を捨てた
対応:環境保全局・ニューヨーク州・大統領の緊急事態宣言 死者数:(?)
- [AC1980]セント・ヘレンズ山の噴火
- 場所:アメリカのワシントン州スカマニア郡にある活火山
注釈:山頂部分は大規模な山体崩壊によって直径1.5キロメートルにわたる蹄鉄型の火口が出現し、山の標高は2950メートルから2550メートルに減少した。
- [AC1983]大韓航空機墜落事故
- 原因:飛行コースをはずれ旧ソ連邦サハリンにある軍事補給基地の方向へ向かった為、
ソ連戦闘機にミサイル攻撃され、日本海に墜落 死者数:(269)
- [AC1984-1985]アフリカの大飢饉
- 場所:サブ・サハラ(半乾燥気候帯)のマリ、モーリタニア、ニジェール、チャド、
ブルキナ・ファソ、エチオピアの国々
原因:医学の進歩の為、乳児の死亡率が低下し、人口増加したため 死者数:(2,000,000)
- [AC1984]インド、ボパールの有毒ガス漏れ
- 場所:インド、ボパール、ユニオン・カーバイド社の殺虫剤製造工場
原因:メチル・イソシアン酸塩が45tonタンクより漏れ、40km四方に拡散 死者数:(2,000)
- [AC1985]メキシコシティ地震
- 地域:メキシコ M:8.1 死者数:(5,900)
- [AC1985]ネバド・デル・ルイス山の噴火
- 場所:コロンビア 死者数:(21,500)
- [AC1986]チェルノブイリ原発事故
- 場所:ウクライナ(当時はソビエト連邦)のチェルノブイリ近郊にあった原子力発電所
型式:原子炉の炉型は、黒鉛減速沸騰軽水圧力管型原子炉、RBMK-1000型(ソビエト型)という型式の原子炉である
原因:当時、爆発した4号炉は休止中であった。原子炉が止まった際に備えた実験を行っていた
ところ、制御不能に陥り、炉心が融解、爆発したとされる。
状況:爆発により、原子炉内の放射性物質が大気中に大量に(推定10t前後)放出された
放出された主な放射性物質は、ヨウ素131、ルテニウム103、セシウム137などとされる
死者数:(40,000[ロシア科学アカデミー発表])
- [AC1988]アルメニア地震
- 場所:アルメニア [M6.8] 死者数:(25,000)
- [AC1990]イラン地震
- 場所:イラン [M7.6] 死者数:(37,000)
- [AC1991]台風、フィリピンを直撃
- 場所:レイテ、ネグロス島などを直撃 死者数:(5,500)
- [AC1991]ピナトゥボ山の噴火
- 場所:フィリピン 死者数:(?)
- [AC1992]メキシコで、ガス爆発
- 場所:メキシコのグアダラハラで大規模なガス爆発 死者数:(200)
- [AC1994]シベリア墜落事故
- 場所:シベリアのイルクーツクで、ロシア・エアロフロート機が墜落 死者数:(120)
- [AC1994]中華航空機、名古屋で炎上
- 状況:台北発名古屋行きの中華航空140便(エアバスA300型)が、名古屋空港への着陸に
失敗して滑走路脇に墜落炎上した
原因:副操縦士が誤って離陸上昇モード(自動操縦モード)のレバーを引っ掛けてしまい、降下
するため操縦桿を倒す、すると自動操縦モードが、更に上昇させようと機首を上げていく,
最終的にほぼ垂直上昇した後、失速墜落した
死者数:(264)
- [AC1994]バルト海でフェリー沈没
- 場所:フィンランド・ウト諸島沖・バルト海
状況:バルト海航行中のカーフェリー「エストニア」が強風と高波で座礁し、沈没した
死者数:(912)
- [AC1995]オクラホマシティで爆発
- 犯人:ネオナチ組織「アーリアン・ネーションズ」・ティモシー・マクベイ
死者数:(168)
- [AC1995]韓国デパート崩壊
- 崩壊の原因:建物の強度不足 死者数:(507)
- [AC1995]兵庫県南部地震
- 場所:淡路島北部 [M7.2] 死者数:(6,400)
- [AC1996]バングラデシュの竜巻
- 死者行方不明者数:(600)
- [AC1999]トルコ大地震
- 場所:トルコ西部 [M7.4] 死者数:(16,000)
- [AC2001]インド大地震
- 場所:インド西部 [M6.9] 死者数:(20,000)
- 第二次世界大戦[ヨーロッパ]
- [背景]
- 第一次大戦の敗戦により、多くの領土を失い、多額の賠償金を負ったドイツは政治・経済も不安定
- [1929]
- 世界恐慌
- [1933]
- 国家社会主義ドイツ労働者党党首として極端な民族主義と反ユダヤ主義を掲げ、ヒトラー総統就任
- [1935]
- ヒトラーはヴェルサイユ条約を破棄、再軍備を宣言
- [1936]
- ベルリンオリンピック開催前後には諸外国からの批判を受け、一時的にユダヤ人迫害政策を緩和するものの、国力の増強とともに、ドイツ国民の圧倒的な支持の基「ゲルマン民族の優越」と「反ユダヤ主義」を掲げ、ユダヤ人に対する人種差別をもとにした迫害を強化してゆく
また一方でスペイン内戦への介入、「ニュルンベルク法」制定、ラインラント進駐などの政策を実行し、合わせて日本とイタリアとの間に日独伊三国軍事同盟を結び、ヒトラーが唾棄していたヨシフ・スターリン率いるソビエト連邦に対抗するなど、ヒトラーは着々とナチズムに基づくドイツを作り上げていった - [1939.09.01]
- ポーランド侵攻を行うが、同9月3日にこれに対してイギリスとフランスはドイツへの宣戦布告を行い、これによって第二次世界大戦が開始された
開戦から2年ほどはフランス全土を占領して連合国をヨーロッパ大陸から追い出し、1941年6月22日に始まった独ソ戦においてはソ連の首都・モスクワまであとわずかのところまでに迫る - [1941.12]
- 閣僚の提案によってユダヤ人滅亡作戦を指示し、いわゆるホロコーストを本格化させる
- [1943]
- イタリア・パドリオ政権が降伏
- [1944]
- ヒトラー暗殺未遂事件,処罰を行った人数は、4,000名
- [1945.03]
- ハンガリーの首都であるブダペストの奪還と、ハンガリー領内の油田の安全確保に失敗
- [1945.04]
- ベルリンの地下壕でエヴァ・ブラウンと結婚式を挙げ,翌日、総統官邸地下壕において共に自殺した
- * 反ユダヤ主義の背景
- 宗教的な差別
- キリスト教はユダヤ教を凌駕するものであると説き旧約聖書に無知な民衆を煽動した
- 民族的な差別
- 外国人・寄留者という地位であった
- 社会的な差別
- 社会的地位を向上させていった成功者への嫉妬
- 意図的
- 教会や施政者によるスケープゴート(身代わり,冤罪)化
- 無知に基づく偏見・歪曲さらに迷信
- ロシア革命に伴って世界各国に流布された偽書「シオン賢者の議定書」によるところが大きい
- 世界を陰で操ろうと目論む人々(=ユダヤ人)がいるとする陰謀論
- 宗教的な差別
- * アドルフ・ヒトラー(Adolf Hitler)
- 1889.04.20
- オーストリアとドイツの国境に在る小さな町(オーストリア側の)、ブラウナウで税関吏の子として生まれる
- 少年時代のヒトラーは成績不良で二回の落第と転校を経験した劣等生
- 1905.
- 実業学校を退学した後ウィーンで画家を志し、美術大学を受験するが二回とも失敗
- 1907.
- 母を亡くしたが、ウィーンでの生活は両親の遺産や自作の絵葉書の売り上げなどによって比較的安定
- このころ,偏ってはいるものの歴史や哲学・美術などに関する豊富な知識と、ゴビノーやチェンバレンらの提起した人種理論や反ユダヤ主義などを身につけた
- 1913.
- オーストリア・ハンガリー帝国の兵役を逃れるためミュンヘンに移住する
- 1914年に勃発した第一次世界大戦にはオーストリア国籍のままドイツ帝国の志願兵となり,
- 西部戦線のバイエルン後備第16歩兵連隊にて有能な伝令兵として負傷と叙勲を経験
- 敗戦後,「ドイツ労働者党」入党する
- 国家社会主義ドイツ労働者党と改め1921年7月29日その党首となる
- 1923.11.09
- 党勢を拡大したナチ党はミュンヘンで政権の奪取をもくろみクーデターを起こすが、失敗
- 禁錮5年を宣告されたが1924年12月20日に釈放
- 1925.02.27
- ナチ党を合法政党として再出発
- 当時のドイツは第一次世界大戦の賠償金負担と世界恐慌による苦しい経済状況が続き、大量の失業者で街は溢れかえり社会情勢は不安の一途をたどっていた
- 1932. 正式にドイツ国籍を取得し、大統領選に出馬するが、失敗
- 1933.01.30 ヒンデンブルク大統領は首相に任命
- 1934.08.02 国家元首の大統領職を代行し、政府首班の首相職に就く
- 1935.
- ヒトラーはヴェルサイユ条約を破棄、再軍備を宣言
- 1938年11月9日夜から10日未明にかけてはナチス党員と突撃隊がドイツ全土のユダヤ人住宅、商店、シナゴーグなどを襲撃、放火した水晶の夜事件が起き、これを機にユダヤ人に対する組織的な迫害政策が本格化してゆく
- スペイン内戦への介入、「ニュルンベルク法」制定、ラインラント進駐などの政策
- 日独伊三国軍事同盟を結び、ソビエト連邦に対抗する
- 周辺国の数回にわたる併合(1938年オーストリア・1939年チェコスロバキア)を行う
- 1939.09.01 ポーランド侵攻
- 1939.09.03 イギリスとフランスはドイツへの宣戦布告
- 1940.07.31
- 国防軍最高司令官に就任し、作戦面でも戦争の最高指導者となる
- 1941.06.22
- 独ソ戦においてはソ連の首都・モスクワまであとわずかのところまでに迫る
- アメリカに宣戦を布告
- 1941.12 閣僚の提案によってユダヤ人滅亡作戦を指示
- 1942年中頃から、東西両戦線およびアフリカ戦線でドイツ軍は完全に劣勢
- 1943年には枢軸国の一員であったイタリア・パドリオ政権が降伏して連合国の側につくなど苦しい立場におかれる
- 1944.07.20
- ドイツ陸軍のクラウス・フォン・シュタウフェンベルク大佐による暗殺未遂事件
- 1944.12
- アルデンヌ攻勢失敗を経て、その後連合軍によりライン川を突破される
- ハンガリーの首都であるブダペストの奪還と、ハンガリー領内の油田の安全確保のため春の目覚め作戦を行うが、圧倒的な連合軍の物量を前に失敗
- 1945.04.29
- ベルリンの地下壕でエヴァ・ブラウンと結婚式を挙げる
- その翌日、総統官邸地下壕において、愛犬ブロンディを自ら毒殺した後、妻エヴァ・ブラウンと共に自殺した
- * ホロコースト
- 当初ナチ党の対ユダヤ人政策で具体的に目指されたのはヨーロッパ外への強制大量移住によってヨーロッパからユダヤ人を追放する計画であり、 劣悪な輸送環境と移送先の過酷な気候によって大多数が死滅するだろうという漠然とした予測をもって立案されていた
- しかしそれは1940年以降、対英・対ソ戦局の推移に伴って廃案となり、ゲットーへの隔離と1942年7月から開始された強制収容所に於ける労働を通した
絶滅及び毒ガス・一酸化炭素・排気ガス等を用いた組織的殺戮へと計画は変更されたと言われている
- 1941年9月3日、アウシュヴィッツ第一収容所でソ連兵捕虜に対して毒ガス・ツィクロンBによるガス殺が初めて行われたとされる
- 1941年9月29日・30日に起きたキエフ近郊のバビ・ヤールでの移住するとの布告で集められたユダヤ人の大量殺害
- 1942年からアウシュヴィッツ=ビルケナウ、トレブリンカ、マイダネク、ベウジェツ、ソビブルなどの収容所が次々と完成しゲットーや占領地域から多くのソ連人捕虜・ユダヤ人が送り込まれた
- 犠牲者数(人)
-
ユダヤ人犠牲者数 ドイツ 165,000 オーストリア 65,000 フランスおよびベルギー 32,000 オランダ 10,000以上 ギリシャ 60,000 ユーゴスラヴィア 60,000 チェコスロヴァキア 140,000以上 ハンガリー 500,000 ソ連 2,200,000 ポーランド 2,700,000 掃討作戦等による被害者 200,000以上 シンティ・ロマ人 250,000 同性愛者 10,000-25,000 精神障害者・重病人など 20,000-30,000 エホバの証人 10,000 - 合計すると1,100万人前後(ユダヤ人600万人、非ユダヤ人500万人)
- 第二次世界大戦[アジア]
- 1900.06.20-1901.09.7 義和団の乱
- 当初は義和団を称する秘密結社による排外運動であったが、1900年に西太后がこの反乱を支持して欧米列国に宣戦布告したため国家間戦争となった
- だが、宣戦布告後2ヶ月も経たないうちに欧米列強国軍は首都北京及び紫禁城を制圧、清朝は莫大な賠償金の支払いを余儀なくされる
- 1902.01.30 第一次日英同盟
- 極東における南下政策を押し進めるロシアの強力な陸海軍の前に苦しい戦いを強いられたが、旅順攻囲戦、奉天会戦、日本海海戦などの戦いで勝利を重ね、 1905年10月に締結されたポーツマス条約により講和した
- 講和条約により、日本は朝鮮半島における勢力を確固たるものとして国防上の課題を解決し、また関東州(旅順・大連地域)の租借権や南樺太を獲得しロシアは極東での南下政策を断念
- 1917 第一次世界大戦中にロシア革命が起こり、ソビエト連邦が成立する
- 1918-1924 シベリア出兵
- 連合国(大日本帝国・アメリカ合衆国・イギリス・フランス・イタリアなど)が第一次世界大戦から離脱したソ連に対し、「チェコ兵捕囚救出」という名目でシベリアに出兵した事件
- 1924.07.01 排日移民法
- アメリカ合衆国の法律が施行
- 1928.06.04 張作霖爆殺事件
- 関東軍による奉天軍閥の長張作霖の暗殺事件
- 1930 昭和恐慌
- 1931.09.18-1933 満州事変
- 関東軍はわずか五ヶ月の間に満州全土を占領し、軍事的には希に見る成功を収めた
- 1932.03.01 満州国の建国が宣言,首都には長春が選ばれ、新京と改名
- 1934.03.01 溥儀が皇帝として即位し、満州国は帝制に移行
- 1933.03 国際連盟総会において賛成42、反対1(日本)、棄権1の非承認により日本は国際連盟を脱退
- 1937.07.07 北京西南方向の盧溝橋で起きた発砲事件
- 日中戦争(支那事変、日華事変)の発端、日本軍と国民党政府は戦争状態に突入、その後戦線を拡大
- 1937-1945 日中戦争(日本と中華民国の間で行われた戦争)
- 1937.12.13 日本軍の南京占領(南京大虐殺)
- 1939.02. 日本軍、中国最南の海南島占領
- 1939.05-1939.09 ノモンハン事件(満州国とモンゴル人民共和国の間の国境線をめぐって発生した軍事衝突)
- 1940.09.27 日独伊三国軍事同盟(日本、ドイツ、イタリアの間で締結された条約)
- 1941.04 米国、国民政府に5千万ドル借款成立、中ソ中立条約成立
- 1941.05 米国、対中武器貸与法発動
- 1941.07 日本軍、仏領インドシナ南部(南部仏印)進駐(アメリカは在米日本資産の凍結、日本への石油輸出の全面禁止)
- 1941.10 東條英機内閣成立(日米衝突を回避しようとする近衛首相に対して、東條は強硬な主戦論を唱え、第3次近衛内閣を退陣に)
- 1942.03 米国 国民政府に5億ドル借款成立
- 1941.12.08 日本はアメリカに宣戦布告し、太平洋戦争に突入
- 1941.12.08 真珠湾攻撃(アメリカ太平洋艦隊の基地),シンガポール攻略(イギリスの拠点マレー半島のコタバル)に奇襲攻撃
- 資源産出地域を占領地(フィリピン、シンガポール、ジャワ島、スマトラ島、ボルネオ島)
- 1942.04.18 アメリカ軍のB-25爆撃機によるドーリットル空襲
- 1942.06.05 ミッドウェー海戦(日本は大打撃を受ける)
- 1942.08- ガダルカナル島の戦い(アメリカ海軍はガダルカナル島上陸を機に反攻に転じる)
- 1942.10.26 南太平洋海戦(ソロモン海域で行われた)
- アメリカ海軍は潜水艦による輸送艦攻撃を行い、物資や資源輸送を封じ込める
- 1944.03-07 インパール作戦の失敗
- インド北東部アッサム地方に位置し、ビルマから近いインパールは、インドに駐留するイギリス軍の主要拠点であった
- 連合国から中国への主要な補給路であり、ここを攻略すれば中国軍(国民党軍)を著しく弱体化できると考えられた
- 1944.06.19-06.20 マリアナ沖海戦(マリアナ諸島沖とパラオ諸島沖)
- 日本軍は大敗、日本列島の本州への直接の空襲が可能
- 1945.03.10 東京大空襲
- 1945.03.12 名古屋大空襲
- 1945.03.13・14日 大阪大空襲
- その後、6月1日、6月7日、6月15日、6月26日、7月10日、7月24日、8月14日に空襲
- 1945.05.14 名古屋大空襲
- 1945.05.25 東京大空襲
- 1944.10.23-10.25 レイテ沖海戦(神風特別攻撃隊)
- 世界史上最大の海戦となり、太平洋戦争において最後の大戦闘
- 日本海軍はこの海戦を最後に、組織的抵抗を終えたとも言える
- 1945.05 ヨーロッパではドイツ国が降伏し、戦争は終結
- 1945.07.26 ポツダム宣言(ポツダム会談[米英ソ]大日本帝国に対して発した十三条から成る降伏勧告の宣言)
- 軍部を抑え切れず、態度を保留
- 1945.08.06 広島市への原子爆弾投下
- 米国の原爆投下は、戦後のアジアの利権のためのソビエト社会主義共和国連邦への牽制、またドイツへの攻撃予定がなくなったために行なわれたという見方も強い
- 1945.08.09 長崎市への原子爆弾投下
- 1945.08.09 ソ連邦は日ソ中立条約を破棄し、対日宣戦布告をして満州・朝鮮北部・南樺太に侵入
- 1945.08.10 日本政府は短波を利用して、ポツダム宣言の受諾を通告
- 1945.09.02 降伏文書への調印により、太平洋戦争はついに終結
- アメリカ統治下[沖縄、奄美諸島、小笠原諸島、トカラ列島]
- ソ連邦に占領[千島、樺太、歯舞、色丹]
- 朝鮮半島[補足]
- 1894.
- 日清戦争で日本が勝ち、日本と清との二国間で結ばれた下関条約にて、日本は清に朝鮮が自主独立国であることを認めさせた
- 1897.
- 国号を大韓と改める
- 1899.
- 清と韓清通商条約を結んだ
- 満州を手に入れたロシアが朝鮮半島に持つ利権を手がかりに明確な南下政策を取りつつあった
- 日本は外交努力で衝突を避けようとしたが、ロシアは強大な軍事力を背景に日本への圧力を増していった
- 1904.
- 日露戦争の開戦
- 1904.02.23
- 日韓議定書を締結(日本政府は開戦直後に朝鮮半島内における軍事行動の制約をなくすため)
- 1904.08.23
- 第一次日韓協約を締結(日本政府の推薦者を韓国政府の財政・外交の顧問に任命しなければならなくなった)
- 1905.11.17
- 日露戦争終結後の第二次日韓協約(これにより韓国の外交権はほぼ日本に接収されることとなり、事実上、保護国となった)
- 1907.07.24
- 第三次日韓協約締結(内政権を掌握し、直後の8月1日には大韓帝国の軍隊を解散させる)
- 1910.08.22
- 日韓併合条約の締結により日本に併合され、大韓帝国は滅亡した
- 大韓帝国政府と韓国統監府は廃止され、かわって全朝鮮を統治する朝鮮総督府が設置された
- 朝鮮総督府は1910年 - 1919年に土地調査事業に基づき測量を行ない、土地の所有権を確定した
- 国有地と認定された土地は接収され、朝鮮最大の地主となった東洋拓殖や、その他の日本人農業者に払い下げられた
- 1917.
- 第一次世界大戦中にロシア革命が起こり、ソビエト連邦が成立
- 1919.03.01
- 三・一独立運動(日本植民地統治下の朝鮮で起こった独立運動,朝鮮総督府当局による武力弾圧の結果、失敗に終わった)
- 1920.
- 満州東部の間島で独立軍 (朝鮮)の抗日武装闘争が激化
- 1920.10
- 中国人馬賊が琿春の日本領事館を襲撃する琿春事件が起った,日本は大規模な間島の抗日武装組織の鎮圧作戦を行い、其の過程で多くの朝鮮人を虐殺した
- 1941.12.08
- 大日本帝国がアメリカ合衆国に宣戦布告
- 1945.08.08
- ソビエト連邦が日本に宣戦布告(ソビエト連邦軍が朝鮮半島東北部に侵攻)
- 1945.02
- ヤルタ会談において、第二次世界大戦後は、敗戦国日本による朝鮮半島統治を終わらせ、その代わりに、朝鮮半島の北緯38度線以北をソ連が、それ以南をアメリカが分断して占領することが決定された