北方民族(アイヌ民族)
- 参考:日本史総合年表 発行所:吉川弘文館
- 参考:日本文化総合年表 発行所:岩波書店
- 参考:アイヌと古代日本 著者:(代表)江上波夫
- 参考:抹殺された古代民族の謎 著者:鈴木 旭/内田 由紀
- 参考:WEB_Site[Wikipedia]より
古代の蝦夷(えみし)は、本州東部とそれ以北に居住し、政治的・文化的に、日本やその支配下に入った地域への帰属や同化を拒否していた集団を指した。
統一した政治勢力をなさず、次第に日本により征服・吸収された。
蝦夷と呼ばれた集団の一部は中世の蝦夷(えぞ)、すなわちアイヌにつながり、一部は日本人につながったと考えられている。
蝦夷についての形式上最も古い言及は『日本書紀』にあり、神武天皇の東征軍を大和地方で迎え撃ったのが蝦夷であったとされる。
蝦夷の生活を同時代人が正面から語った説明としては、659年(斉明天皇5年)の遣唐使と唐の高宗の問答が日本書紀にある。それによると、日本に毎年入朝してくる熟蝦夷(にきえみし。おとなしい蝦夷)が最も近く、麁蝦夷(あらえみし。荒々しい蝦夷)がそれより遠く、最遠方に都加留(つがる)があった。
信憑性に欠けるこの説明から確実にわかるのは、都加留(津軽)が固有名をあげられるほどの有力集団として存在したことである。
7世紀頃には、蝦夷は現在の宮城県中部から山形県以北の東北地方と、北海道の大部分に広く住み、その一部は日本の領域の中にあった。日本が支配領域を北に拡大するにつれて、しばしば防衛のために戦い、反乱を起こし、又国境を越えて襲撃を行った。最大の戦いは胆沢とその周辺の蝦夷との戦いで、780年に多賀城を一時陥落させた伊治呰麻呂、789年に巣伏の戦いで遠征軍を壊滅させた阿弖流為(アテルイ)らの名がその指導者として伝わる。日本は大軍で繰り返し遠征し、征夷大将軍坂上田村麻呂が胆沢城と志波城を築いて征服した。日本の支配に服した蝦夷は、俘囚と呼ばれた。
蝦夷は平時には交易を行い、昆布・馬・毛皮・羽根などの特産物を日本にもたらし、代わりに米・布・鉄を得た。
9世紀に蝦夷に対する朝廷(関西)からの征服活動は、岩手県と秋田県のそれぞれ中部で停止した。しかしその後も、現地の官僚や俘囚の長たちは、蝦夷内部の紛争に関与し続け、地方権力から支配を浸透させた。こうして、東北地方では12世紀には蝦夷としての独立性は失われた。
中世以後の蝦夷は、アイヌを指すとの意見が主流である。(ただし中世の蝦夷はアイヌのみならず後に和人とされる渡党も含む。)13世紀から14世紀頃には、現在アイヌと呼ばれる民族と同一とみられる「蝦夷」が存在していたことが文献史料上から確認される。アイヌの大部分が居住していた北海道は蝦夷が島、蝦夷地などと呼ばれ、欧米でも「Yezo」 の名で呼ばれた。
14世紀には、「渡党」(近世の松前藩の前身)、「日の本」(北海道太平洋側と千島。近世の東蝦夷)、「唐子」(北海道日本海側と樺太。近世の西蝦夷)に分かれ、渡党は和人と言葉が通じ、本州との交易に従事したという文献(『諏訪大明神絵詞』)が残っている。また、津軽地方の豪族である安東氏が、鎌倉幕府北条氏より蝦夷管領(または蝦夷代官)に任ぜられ、これら3種の蝦夷を統括していたとする記録もある。
15世紀から16世紀にかけて、渡党を統一することで渡島半島南部の領主に成長していった蠣崎氏は豊臣秀吉・徳川家康から蝦夷地の支配権、交易権を公認され、名実共に安東氏から独立し、江戸時代になると蠣崎氏は松前氏と改名して大名に列し渡党は明確に和人とされた。
- 考えられるポイント(私見)
- 蝦夷は蛮族(少数民族:先住民族)であった
- 大和政権以降、近隣の蛮夷は文化吸収(征夷)されたが、長く執拗な闘争になったのか
- 樺太蝦夷が大陸ともっと交流してたら
- 松前藩以前の安東国に関する十三湊などの外交史(資料不足です)
- 北方領土領有の歴史
- ロシアの極東開発の歴史
- ロシアの執拗なまでの領土盗獲(領土拡張・不凍港確保など)
- 蝦夷は蛮族(少数民族:先住民族)であった
樺太では南部にアイヌ民族、中部にウィルタ民族(アイヌ民族はオロッコと呼んだ)、 北部にニヴフ民族(ニヴヒ)などの北方少数民族が先住 | |
97 | 熊襲を制圧 |
110 | 吉備武彦と大伴武日を連れて東夷征伐(現在の関東地区)に出発 |
550 | 倭国内で鉄生産始まる、東日本各地で馬匹生産の本格化 当初、馬は朝廷側の独占であったが、生産性も良く、もともとアイヌは器用であったため、 蝦夷地にも急速に普及する |
581 | 蝦夷数千が反乱、その首領らを召し忠誠を誓わせる |
589 | 中臣勝海(東山道)・宍人鴈(東海道)・安部某(北陸道)を遣わし国境を視察 |
626 | 冷夏・大飢饉 |
636 | 大干ばつ |
637 | 蝦夷反乱、上毛野形名を将軍とし攻撃 |
640 | 「流鬼」(樺太アイヌ)が唐に入貢 |
642 | 大干ばつ |
655 | 越・陸奥の蝦夷194人、百済の調使150人と饗する |
658 | 阿倍比羅夫、船180艘を率い歯咢田(秋田)・渟代(能代地方?)の蝦夷を攻撃 渟代・津軽の蝦夷入朝 |
659 | 阿倍比羅夫、船180艘を率いて、飽田・渟代・津軽の蝦夷を攻め、後方羊蹄に政所を置く 第四次遣唐使を派遣、蝦夷男女二人を献じる |
660 | 阿倍比羅夫、船200艘を率いて、粛慎を攻める |
666 | 百済の奴婢男女2000余人を東国に移住させる |
673 | 美濃国に不破関を設置 |
684 | 百済からの渡来人23人を武蔵国に移す |
685 | 諸道(北海道を除く)に使者を派遣し巡察 |
687 | 高句麗からの渡来人56人を常陸国に移す |
702 | 薩摩・多褹を征服 |
705 | 凶作 |
706 | 疫病の流行 |
709 | 蝦夷征討の為、諸国兵器を出羽柵に運送 |
712 | 出羽国を置く、陸奥国最上・置賜郡を編入 |
714 | 尾張・信濃・上野・越後4国の民200戸を出羽の柵戸にする |
715 | 関東の富民1000戸を陸奥に移配 |
716 | 7国の高麗人1799人を陸奥武蔵国に移す、4国の百姓100戸を出羽国に移す |
717 | 4国の百姓100戸を出羽の柵戸に移す |
719 | 東海・東山・北陸道の民200戸を出羽柵に移す |
720 | 隼人反乱 |
724 | 陸奥国の蝦夷反乱、俘囚を伊予114人、筑紫578人、和泉監15人を移配 |
733 | 出羽柵を秋田に移し、雄勝村に郡を建てる |
734 | 大地震 |
737 | 天然痘の流行 |
759 | 俘囚2000人を雄勝村の柵戸とす |
762-763 | 凶作・飢饉 |
774 | 大伴駿河麻呂、陸奥国遠山村の蝦夷の攻撃 |
776 | 出羽国志波村の蝦夷が反乱、陸奥国の俘囚395人を大宰府管内諸国に移配 陸奥国の兵士3000人に胆沢の蝦夷を攻撃、出羽国の俘囚358人を大宰府管内・讃岐に移配 |
777 | 出羽国の兵士、志波村の蝦夷に敗退 |
789 | 多賀城に諸国の軍を集結し、蝦夷征討を開始するが、敗戦する |
790-794 | 蝦夷征討 |
802 | 坂上田村麻呂に陸奥国胆沢城を築造させる、蝦夷阿弖流爲・母礼ら500余人を率い投降する |
804 | 坂上田村麻呂に陸奥国中山柵を陣とさす |
878 | 出羽国の蝦夷俘が反乱、関東大地震起こる |
887 | 京・諸国で大地震 |
1264 | 樺太に住むアイヌ(骨嵬)とニヴフ(吉烈迷)の間に紛争勃発 蒙古帝国(のちの元)が3000人の軍勢を樺太に派兵し、住民の樺太アイヌを朝貢させる |
1268 | 津軽でエゾの蜂起があり、安藤氏が討たれる |
1284 | 樺太アイヌが元に反乱を起こす |
1295 | 日持上人が日蓮宗の布教活動の為に樺太南西部(後の樺太本斗郡本斗町阿幸)へ渡り、 布教活動を行ったとされる |
1297 | 日本の津軽地方を本拠地とする蝦夷管領安東氏がアイヌを率いて シベリアの黒竜江(アムール川)流域に侵攻 |
1308 | アイヌ、元に降伏。毎年の貢物を約束 |
1368 | 元が中国大陸の支配権を失い北走、満州方面を巡って新興の明を交えての戦乱と混乱が続き、 樺太への干渉は霧消する |
1411 | 明は、黒竜江(アムール川)下流域まで進出。 衛(領事館)を樺太など3箇所に設置し、アイヌ民族と交易 |
[蝦夷地における主導権争い] 15世紀 - 和人が蝦夷地南部12箇所に勢力を張る。道南十二館という。 勢力を張った和人土豪はアイヌとの交易や漁場への進出を通して成長する | |
1457 | コシャマインの戦い。 和人の北海道蝦夷地進出に対してアイヌの首長コシャマインが起こした蜂起。 花沢館の館主である蠣崎氏の客将、武田信広が制圧し、蠣崎家を相続すると、道南十二館を統一して蝦夷を単独支配した |
1485 | 樺太アイヌの首長が武田信広(松前藩祖)に銅雀台を献ずる |
[アイヌ・倭人拮抗時代] | |
1513 | アイヌ蜂起し、蠣崎光広の松前大館を攻略 |
1515 | アイヌ蜂起するも、蠣崎光広が首長を誘殺 |
1528 | 蠣崎義広、蜂起したアイヌを撃退 |
1529 | 蠣崎義広、蜂起したアイヌの首長を謀殺 |
1550 | 安東舜季、蝦夷地の国情視察を目的に蝦夷地に渡る。(東公の島渡) 蠣崎家はその後、豊臣秀吉からも所領安堵されて「蝦夷島主」とされた。 さらに江戸幕府からアイヌとの交易独占を認められ、それからは「松前氏」と名乗った。 松前藩の支配下におかれてから、松前商人が不平等な交易をするようになったため、 アイヌの不満は高まり、下記に示すような蜂起にいたることになる それらの戦いでは銃器を大量に投入できた和人側に利があったが、アイヌも火縄銃を利用したといわれる。 幕府はアイヌに銃を渡すことを禁じたが、ロシア由来の銃も利用された クナシリ・メナシの戦いに破れて以降、アイヌによる組織的な武力抵抗は見られなくなった |
1562 | ベリユによって製作された世界地図の津軽地方からカムチャツカにかけての地域にBANDOY(安東国)と記される |
1593 | 豊臣秀吉が松前慶広に蝦夷地全域の支配権を付与 |
1635 | 松前藩の松前公広が村上掃部左衛門を樺太巡察に派遣し、ウッシャムに至る |
1643 | 蝦夷地西部で、ヘナウケの乱 |
1644 | 江戸幕府が松前藩から提出の所領地図「正保御国絵図」を作成した |
[倭人介入による主導権争い] | |
1648 | 東部蝦夷(メナシ・シコツ)間の抗争 |
1669 | シャクシャインの戦い |
1679 | 松前藩の穴陣屋が久春古丹(後の樺太大泊郡大泊町楠渓)に設けられ、日本の漁場としての開拓が始まる |
1709 | 清の皇帝が3人のイエズス会修道士に命じて清国版図測量中に黒竜江河口対岸に島があると聞き、 満州語で、現地民の通称であるサハリン・ウラ・アンガ・ハタという名で呼んだ |
1742頃 | 樺太アイヌが清商人を略奪し、清の役人が樺太アイヌを取り締まる |
1754 | 蝦夷地の国後島に「場所」を開設 |
1758 | ノシャップ蝦夷とソウヤ蝦夷の抗争 |
1770 | 十勝蝦夷と沙流蝦夷の抗争 |
1774 | 松前藩、飛騨屋久丘衛に江鞆・厚岸・根室・クナシリに「場所」を請負わせる |
1786 | 最上徳内ら、蝦夷地の千島を探検、得撫島(ウルップ)に至る |
[役蝦夷時代] | |
1789 | クナシリ・メナシの反乱、松前藩鎮圧 |
1790 | 樺太南端の白主に松前藩が商場を設置、幕府は勤番所を置く |
1796 | イギリス人プロートン、海図作成の為、絵鞆(室蘭)に来航、翌年にかけて日本近海を測量 |
1798 | 近藤重蔵が東蝦夷を探検、択捉島に「大日本恵土呂布」の標柱を立てる |
1799 | 樺太南部など東蝦夷地が幕府の直轄地となる |
1800 | 伊能忠敬が蝦夷を測量 |
1801 | 得撫島(ウルップ)に「天長地久大日本七属島」の標柱を立てる |
1802 | 江戸幕府、蝦夷奉行を置く。後に箱館奉行となる |
1804 | ニコライ・レザノフが日露の通商を求めて長崎に来日、通商を拒絶される |
1806 | ロシア船、樺太に渡来し、久春古丹に上陸し会所を襲い番人を連れ去る |
1807 | ロシア船、択捉島のシャナ会所を襲い、樺太の大泊の番屋を焼く(フォボストフ事件) 函館奉行、奥羽諸藩に蝦夷地出兵を命じる ロシア人、連行した番人を通して通商を要求、拒否の場合は攻撃を予告 幕府を蝦夷地に派遣するもロシア船、利尻島を襲い幕府の船を焼く、ロシア船打払いを命ずる 西蝦夷地を幕府直轄化。 箱館奉行を廃止し松前奉行を置く。 アイヌに対する和風化政策がおこなわれる |
1808 | 江戸幕府が、最上徳内、松田伝十郎、間宮林蔵を相次いで樺太に派遣。 松田伝十郎が樺太最西端ラッカ岬(北緯52度)に「大日本国国境」の国境標を建てる 長崎でフェートン号事件 |
1809 | 間宮林蔵が樺太が島であることを発見し、呼称を北蝦夷と正式に定める 松田伝十郎が樺太アイヌ住民の問題解決に貢献した。また、山丹貿易を幕府公認とし、アイヌを事実上日本人として扱った |
1811 | ゴローニン事件。日露の緊張が高まる |
1813 | ゴローニン事件が解決するものの日露の緊張が残る |
1821 | 日露関係の緩和を受け、幕府は蝦夷地を松前藩に返還する |
1848 | ロシアの東シベリア総督ムラヴィヨフは海軍軍人ゲンナジー・ネヴェリスコイにアムール河口部およびサハリン沿岸の調査を依頼。 ロシア人も樺太が島であることを知る |
1853 | ロシアが、北樺太北端クエグト岬に露国旗を掲げ、領有を宣言。ロシア軍が久春古丹を襲撃する。 ロシア使節プチャーチン来日。 長崎に於いて樺太・千島の国境交渉と交易を求め、日本全権筒井肥前守・川路聖謨と交渉したが、決裂した |
1854 | 日露和親条約締結、北海道が日本領、得撫島以北の千島列島がロシア領に決まる 樺太地区は日露国境を樺太島上で定めず1852年までに日本人(大和民族)とアイヌ民族が居住した樺太の土地は日本領、 その他是までの仕来りによることを決定した |
1855 | 日露和親条約で択捉島以南が日本領として確定する |
1859 | ムラヴィヨフは、自ら軍艦7隻を率いて品川に来航。樺太全土は露領と威嚇したが、幕府はこれを拒否する |
1865 | 岡本監輔が、樺太最北端ガオト岬(北緯55度)に至り、「大日本領」と記した標柱を建てる |
1867 | ロシアが軍事力を背景にサンクトペテルブルグの国境交渉で、幕府に迫り、樺太仮規則に調印。 樺太は初めて日露両国の共同管理地となり、両国民が雑居したが、紛争が絶えなかった |
1868 | 明治維新 |
1869 | 戊辰戦争、函館戦争で終了 蝦夷地及び北蝦夷地をそれぞれ北海道及び樺太と改称、無主地として名実ともに日本領土、内国植民地として開拓を始める |
1870 | 開拓使設置。現地で初となる屯田兵が置かれる 樺太開拓使が開拓使から分離して、久春古丹(樺太大泊郡大泊町楠渓)に開設される |
1871 | 戸籍法制定(編製は翌年) アイヌは「平民」に編入 アイヌの開墾者に家屋・農具 を与え、独自の風習を禁じ、日本語教育を含めた同化政策を始める 樺太開拓使を閉鎖し、開拓使に再度統合する |
1872 | 開拓使、北海道土地売貸規則・地所規則を公布 |
1874 | 屯田兵例則、制定 |
1875 | ロシアと樺太・千島交換条約締結 日露住民の紛争の絶えなかった樺太をロシア領、千島列島全域を日本領とする これに伴い、日本国籍を選択した樺太アイヌ108戸841名を宗谷に、翌年対雁に強制移住させる 千島アイヌ全員を色丹島に強制移住させた、慣れない生活と風土にアイヌは次々に倒れ、戦前に全滅した 屯田兵、札幌郊外の琴似兵村に入地。本格的な屯田兵の北海道入植が始まる |
1876 | 鹿猟規則によりアイヌの伝統的猟法(仕掛け弓矢)が禁止になり、代わって猟銃が貸与される |
1877 | 北海道地券発行条例公布(アイヌ居住地を官有地第三種に編入) |
1878 | 開拓使、アイヌの呼称を「旧土人」で統一。札幌郡内諸川での鮭漁を全面禁止に 北千島アイヌ全97名が色丹島に強制移住 |
1886 | 北海道庁設置。北海道土地払下規則公布 |
1889 | 北海道庁、アイヌの食料分として許されていた鹿猟を禁止 |
1890 | 作家のアントン・チェーホフが、流刑地となっていた樺太を現地調査。後に報告記「サハリン島」を執筆する |
1894 | 北海道庁、近文に、アイヌへの付与予定地を確保。以降、第七師団設置に伴う移転命令や反対運動が起きる |
1897 | 北海道国有未開地処分法公布。150~250万坪の土地が無償貸与される |
1899 | 北海道旧土人保護法 |
1901 | 旧土人教育規程公布。日本人児童と区別する簡易教育が行われる |
1905.07 | 日露戦争末期、日本軍が樺太島に進攻、全域を占領(樺太作戦) |
1905.09.05 | 日露戦争後のポーツマス条約締結により、北緯50度以南の樺太島(南樺太)がロシアより割譲されて日本領土となり、樺太民政署により管理 1875年北海道に移住した樺太アイヌのうち336人が故郷に戻った |
1907.04.01 | 樺太民政署の発展的解消により樺太庁発足 |
1908.03.31 | 内務省告示にて、地名を日本語式漢字表記に変更 |
1915.06.26 | 勅令第101号樺太ノ郡町村編制ニ関スル件により、17郡4町58村が設置される |
1916 | 新冠村のアイヌ80戸が御料牧場の都合で強制移転 |
1923.08 | 詩人の宮沢賢治が樺太訪問 |
1918年からのシベリア出兵の際に日本は北部も占領したが、1925年に撤兵する | |
1929 | 拓務省の設置に伴い、樺太庁がこれに編入される |
1929.03.26 | 樺太町村制が公示され、町村に自治制が敷かれる |
1930 | 北海道アイヌ協会設立 |
1937 | 日中戦争始まる |
1941 | 真珠湾攻撃。太平洋戦争、始まる |
1942.11.01 | 拓務省が他省庁とともに一元化され、大東亜省が設置される。これに伴い樺太庁は内務省へと移管される |
1945.08.09 | ソビエト連邦が日ソ中立条約を一方的に破棄して占領作戦を開始する 8月11日には北緯50度国境を侵犯してソ連の赤軍第一極東軍が南樺太に攻め込み、千島でも入れ替わるように国籍不明機(実際はソ連軍機)の攻撃を受け |
08.14 | 日本は連合国に対してポツダム宣言受諾を表明、8月21日に停戦 |
08.20 | 北のひめゆり事件が起こる 占守島の日本軍武装解除は8月23日と24日に行われた |
08.26 | 松輪島(マツワ島) |
08.27 | ウルップ島を占領 |
08.29 | 択捉島を占領 |
09.01-09.04 | 国後島と色丹島を占領 |
09.05 | 歯舞諸島を占領 |
1946.02.02 | ソビエト連邦、南樺太および千島列島の領有を宣言する |
1946 | 「全道アイヌ大会」開催。社団法人北海道アイヌ協会を設立 |
1947 | 千島住民は全員が殆ど強制的に本土へ引き上げる |
1949.06.01 | 樺太庁消滅 |
1949 | 北海道開発庁設立。復員兵や満州引揚者の就労の場として北海道の農地開拓が推奨される |
1951.09.08 | サンフランシスコ講和条約締結により、連合国に対し南樺太および千島列島の領有権を放棄する アイヌ民族などが先住していた,主に南千島、得撫島(ウルップ島)、北部の占守島(シュムシュ島)、幌筵島(パラムシル島)など |
1952 | サンフランシスコ講和条約発行(ただし、旧ソ連・現ロシアは未調印) |
1960 | 北海道アイヌ協会、再建総会を開催 |
1961 | 北海道アイヌ協会、北海道ウタリ協会に名称変更。不良環境地区改善施設整備事業、開始 |
1980 | 関東ウタリ会発足 |
1983 | レラの会発足 |
1984 | アイヌ古式舞踊が国の重要無形民俗文化財の指定を受ける |
1986 | 中曽根総理、「日本単一民族国家」発言 |
1988 | 「ウタリ問題懇話会」から北海道知事に対し、アイヌ新法問題について報告書提出 北海道議会全会一致でアイヌ新法の制定についての要望意見書を採択 北海道ウタリ協会・北海道・北海道議会が「旧土人保護法の廃止」と「アイヌ新法の制定」を要請 |
1992 | 国連本部で開催された「世界の先住民の国際年」の 開幕式典で北海道ウタリ協会理事長 野村義一が日本の先住民族として記念演説 |
1994 | 萱野茂、参議院比例代表繰り上げ当選。アイヌ初の国会議員となる |
1995 | 内閣官房長官、「ウタリ対策のあり方に関する有識者懇談会」を設置 |
1997 | 札幌地方裁判所「二風谷ダム訴訟」の判決でアイヌの先住民権を認める 「アイヌ文化の振興並びにアイヌの伝統等に関する知識の普及及び啓発に関する法律」が制定・施行 。同時に北海道旧土人保護法等が廃止される 財団法人アイヌ文化振興・研究推進機構、設立 |
1999 | 「伝統的生活空間(イオル)の基本構想」、国に提出 |
2000 | 国土交通省、文部科学省、北海道、アイヌ文化振興財団、北海道ウタリ協会との間で「アイヌ文化振興等施策推進会議」が設置される |