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359年の伝統を誇る県下最大の盆踊りと 言われる「備中たかはし松山踊り」。8月14日 から16日までの3日間会場のJR高梁駅前大通り周辺は 踊り一色に染まります。 8月15日私の初見物の感想です。 高梁市は、明治2年(1869)まで松山といっていました。 松山踊りは地踊りと仕組踊りとあります。 地踊りは慶安元年(1648)、ときの藩主、 水谷勝隆が五穀豊穣を祈ると共に城下の繁栄を 祝ったことがその起りと伝えられています。 当初からの踊りの変遷もあると思いますが、 音頭も踊りも大変ノリのよい代表的な盆踊りだと感じ、 見ているだけでも結構楽しくなりました。 仕組踊りは延享元年(1744)伊勢の亀山から移封した 板倉勝澄が武士たちに躍らせたのが始まりで、 その後町人の間にも広まったとされる演劇的な踊りで 見応えがあります。 |
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JR備中高梁駅前大通りには夕方から道路中央に音頭櫓が据えられ三味線7,8人と太鼓打ちの賑やかな囃子にのって音頭取りによって松山踊りの歌詞が 口説き調で唄われます。とても明るく調子のよいリズムです。昔からあったと思えないほど斬新性がありテンポが早くなるになる「やとさ」でも 自然に踊りたくたくなるようなリズムです。若い人が現代風に軽快に踊っているのが印象的でした。 見せる踊りとして登場した「踊りフレンズ」の揃いの編み笠、浴衣の衣装がとても踊りに似合い正統的な踊りを披露して魅せます。 「踊りフレンズ」に続いて大勢の踊り手が長い輪になって踊って回ります。市民の方も踊り上手が多いのに感心しました。 この時間、近くの高梁川では先祖を送る「精霊流し」が始まっていました。水で溶けるような舟で流すことになっているようです。 地踊りはまだまだ続いていましたが7時頃から1時間も堪能しましたので、JRの電車で高梁を後にしました。 |
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尺八の調べに乗って「頃は元禄中ツ頃‥」で始まる口説きの朗々たる名調子。 ‥‥物語は「備中松山城主水谷家は勝隆、勝宗、勝美と3代続いたが、元禄6年(1693)勝美亡き後、後嗣なく断絶し、 幕命により播州赤穂藩主浅野長矩が収城使に任ぜられる。家老大石内蔵助らが城の明け渡しを求めにやって来ました。 そのときの備中松山藩の家老が鶴見内蔵助、同じ内蔵助の奇しき運命。松山藩の家臣は徹底抗戦の構えをも示す緊迫した状況、 鶴見内蔵助は己を捨てて城下の民の安かれと無血開城となる歴史の一幕を演舞に仕組んだもの。」‥‥ 保存会の皆さんが商家資料館「池上邸」ほか数ヶ所でこの緊迫した状況を見事に演舞して観衆に深い感動を与えました。 後日譚として大石内蔵助は、元禄8年上州高崎から安藤重博が移封するまでの 1年半在城して城の管理に当たる。その後の元禄14年、江戸城松の廊下事件が起きる |