ピッカリ独走会

鬼ノ城ツーリング

1.コース
   砂川公園⇒鬼ノ城⇒砂川公園

2.走行距離・高低差

走行距離 6km
高低差 300m

3.天候

天気 気温 風速
晴れ 30度 南2m

4.感想など
 吉備路マラソンコースから望める鬼ノ城。歴男のはしくれとして以前から気にはなりつつも、なかなか行く機会はなかった。この城、下から見ると小さいながらもなかなか美しい。しかしこの見えている建物は、本丸ではなく実はただの門である。
 鬼ノ城は1971年に山中で列石が発見されたことでその存在が確認され、現在は遺構の発掘・復元が進められている最中だそうだ。
 築城は7世紀頃。築城主は不明。地元には、「新羅に攻められ逃げ落ちてきた百済の王子が家来を引き連れてこの地に居着き、温羅(うら)と名乗ってここを拠点に山賊のようなことを繰り返していいたため、朝廷が吉備津彦命を派遣して討伐した。」という伝承がある。
 一方、史実では、「百済は663年に唐・新羅連合軍に征服され、多くの貴族が倭に亡命してきた。朝廷は唐・新羅軍の侵攻に備え、百済の技術を借りて西日本に12ヶ所の古代山城を建造した。鬼ノ城はこの12ヶ所には含まれていないが、同時期に同様の目的で建造されたもの。」とされている。
 7世紀というと飛鳥時代。天皇中心の政治が行われていた頃。この辺りは吉備国と呼ばれ、塩や鉄を産出して大いに栄えていたという。


 さて、この日は肩コリが酷く長時間自転車に乗れないため、鬼城山麓にある砂川公園に車を停めてスタート。往復わずか6kmの単独ツーリング。公園内の河原では残りわずかな夏休みを最後まで満喫しようとする子供達が遊びまわっている。
 鬼城山の標高は397m。公園から鬼城山ビジターセンターまでは平均10%程の上りが3kmも続く。特に1kmから2.5kmの「鬼の釜」までが厳しい。ちょっと休憩しようかと思ったところで蜂にまとわりつかれて止まれず「鬼の釜」まで漕ぎ続けた。
 ここまで出会ったのは、下りてきた車が2台と歩行者が1人、それと20人位の小学生の団体だけ。ビジターセンターまでの所要時間は休憩を含めて約30分。

 


 ビジターセンターは非常に立派。鬼ノ城についての資料が豊富でしっかり勉強できる。無料の鍵付きロッカーまである。なのに自販機は無い。



 マップを見ると、ビジターセンターから遊歩道を登るとまず展望台があり、さらに上って角楼、そこから周遊路になっているようだ。


 遊歩道を進むとまず角楼が見えてくる。角楼の上面にはウッドデッキが敷かれ、アルミ製の柵で囲われている。完全に観光用の展望台だ。ここから西門がよく見える。この西門が下界から見えている建物のようだ。また、ここから南方向は、総社の町並みや遥か四国の山々までも一望できる。
 鬼ノ城は、この西門付近以外はどこも急斜面に阻まれているため、当時も最もなだらかなこのルートで行き来していたと考えられる。当然攻め込まれる場合もこの西門が最激戦区になるであろう。この角楼は、大阪城の真田丸のように、西門から攻め入ろうとする敵を西門とは別の角度から攻撃するための施設だったのだろう。

 


 西門は櫓(やぐら)のような木造建築物で、門の間を吹き抜けてくる風がチョー気持ちいい。門を挟む城壁は高さ5m以上はある。城壁は石垣と土塁で構成されている。こんなに垂直に近い土塁じゃ雨で崩れるだろうと思ったが、これは版築工法という、土を突き固めた強固な造りでできているから大丈夫なのだそうだ。
 柵部分には何やら中国っぽい飾りが並んでいるが、これが異常に安っぽい。何だこのデザイン。ほんとにこんなのあったのか?と思って後で調べてみると、どうやら鬼城山整備委員会のお偉いさんが勝手にデザインして飾り付けたものらしい。いらんわ。

 

 2.8kmもあるという城壁に沿うように造られた遊歩道を反時計回りに歩いてみる。南門までに下の写真のような列石をいくつも見ることができる。


 南門はまだ復元作業が始まったばかり。構造や規模は西門とほぼ同じらしい。


 東門も復元は進んでいない。こう見ると南門とほとんど区別がつかない。資料によると東門の方がやや小さいらしい。どちらも周りの山肌は急峻で、容易に人が行き来できる場所ではない。勝手口程度の役割だったと勝手に推測する。


 屏風折れの石垣(第二展望台)に到着。下の写真は屏風折れの付け根部分から東向きに撮影。
 北側から血吸川の音がよく聞こえる。よく見えないが滝でもあるのだろうか。先端からの景色は当然のように絶景。おそらくここから立ち小便をするために造られたものであろう。


 北門も西門や南門に比べると小さい。門の中央に排水溝が設けられている。ここも人が簡単に行き来できるような場所ではない。


 ここから内部に足を踏み入れてみる。建物跡としては、これまでに7ヶ所の礎石建物跡と1ヶ所の掘立柱建物跡が発見されているらしい。これらは倉庫や住居として建てられたものと推測されている。


 鬼城山山頂(第一展望台)からの景色。素晴らしいのは確かだが飽きてきた。


 今回は見に行かなかったが、東門の近くからは多くの鍛冶場が発掘されている。古代山城で鍛冶場が発見されているのは鬼ノ城だけらしい。わざわざ交通の便が悪い山城の城内に鍛冶場を造ったところに好戦的な匂いを感じるのは私だけだろうか。
 6世紀頃から吉備高原は鉄の産地だったらしく、製鉄技術を持つ温羅がこの地に目を付けて城を構えたというのは、いかにもあり得る話ではある。
 朝廷が防衛のために築城したとすればどうだろうか。百済の技術者達の指導のもとに築城したのであれば、鉄の産地に鍛冶場を持つ山城を造るというのは十分考えられるが、それならば同じような古代山城が他にもあってよさそうなものだ。
 ちなみに、刀鍛冶で有名な備前長船はここから東へ30km程であり、この時代で言えば同じ吉備国である。鬼ノ城の製鉄技術がそのまま長船に伝わったがどうかは知らないが、そう考えるとちょっとそそられる。

 遊歩道は、ゆっくり見てまわって1時間半。角楼と西門まではわりと賑やかだったが、そこ以外ではほとんど人に会わなかった。城壁近くの周回路は明るくてまだいいが、山中に入ってしまうとちょっと怖い。「蝮に注意」という看板やスズメバチの死骸も複数見たし、半袖・短パンで来たのを後悔した。

 帰りはブレーキをかけ続けないと危険を感じるほどの下りを、よくこんなの上って来たなーと我ながら感心しながら下る。


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