富野由悠季監督講演会
「機動戦士ガンダム30周年 x S+FOR+SWEEP10周年 異種格闘技特別興行」要旨

2009/06/27(土) 於大阪市中央公会堂 


 公演を受けたわけ・・・演出家の目線で会場の建物に興味があった。

 アニメの製作現場について、時期は不明だが社会的に認められ、職業として不可解でなくなってきた。
それは税務署の対応の変化に表れていて、鉛筆一本、紙一枚を経費で申告しても諮問されなくなってきた。それと同時にアニメ好きがアニメの現場に入ってくるようになって、アニメがつまらなくなって来た。

 芸事の職というものは、それを好きな人が集まったらそれでいいのか?否。ただ好きなだけでは邪魔。アニメが好きでアニメしか考えない人の集まりは素人の集まりになる。それでは芸事は完成しない。

 近年アニメの学課や専門学校ができてきたが、学校での勉強では芸事に対応できる職業人は養成できない。学課での技術のための物理的訓練は職場の各パートの技能者・技術者を養成する。しかしクリエイティヴな仕事には技術は必要ないかもしれない。才能やクリエイティヴィティに対し、技術は後付けできる。

 技術を訓練によって習得しなければならない人は“普通の人”である。

 自分は就職の際、実写映画を作りたかったが、そういった会社に就職できなかったので、当時電気紙芝居と言われ、一人前の大人の職として認められていなかったアニメ制作の仕事に就いた。けれど好きでない、認められない職によって現在の自分の位置がある。才能が問題ではない。自分の能力だけで考えてはいけない。機会はあるのだから、その機会をどう達成させるのかが問題。

 アニメが普通に好きで、専門学校で勉強しただけでは、それによって一生暮らすのは難しい。けれども絶望的ではない。それは、(その人の)これからに掛かっている。

 職業に対する努力の問題として、先人達の例を生活規範に取り入れるべきで、でなければそれを一生の職にはできない。

 職の確立のため、先人は「家元制」を作って自分達の世界を社会的に形にした。アニメ現場の人々は歌舞伎・お茶・能などの客を想定した世界の家元制の生活を知らなさすぎる。それは365日訓練をしていて、役者だけでなく全てのスタッフの生活にも体を張って、自分の意思を投入できないほど過酷なもの。

 客に対して仕事を見せる歌舞伎などに対してアニメや漫画は全てデスクワーク。音楽も個室で音楽を作れるようになり、密室の行為になった。学校などで言われる「個性のままに努力すれば何とかなる」と言う言葉は子供を元気付けるための嘘。教師は嘘と知ってそう教えている。“ここにいる私”がエンターテイメントを通してなんとかしていく視点と言うのは、これで食える職か、お茶のような広い守備範囲を持っているかと言うこと。世界中の人に対して、何かを提供できるかということ。

 近年自然に死ぬまで生きていたいと思うようになった。それは死ぬまで生きると言うこと。元気でいたいと言うこと。

 ガンダムの半分は自分のものではない。当時の事情や社会・経済からの条件があった。しかし、では好きに作品を作っていたら、それ以上のものができるかと問えば、それは不可能である。ガンダムからの30年に乗っている自分“我”と言うものは好きなだけでは作れない。「これで生きる」と言う信心は少しずらし、他人の能力は認める自分を作るべき。

 宮崎駿がアニメに入る切っ掛けになった原点は堀田善衛の『方丈記私記』。これを読めば宮崎アニメの真骨頂がわかる。戦時中の東京大空襲や戦後の印象をクラシックな文章で方丈記に絡めて語り、方丈記は面白いから読めと言う作品で、映画的。アニメの機能でこれができるぞと言うのが宮崎さんの主張。アニメだけが好きなだけではオスカーは取れない。宮崎さんは自分の根本のモチーフを隠していない。私は(あなたは)それだけの好きなものをもっているのか?365日の精進もなしに本物になれると思うな。

 “私”や“俺”に他人は興味を持たない。他人や社会はそんなに優しくない。顔を向けさせるためには見てもらえるものを提供するしかない。何かを表現に高める表現としての形をとると言うことは他人に伝わるようにすると言うこと。10人中5人の顔を向かせるためにはかなりの手練手管が必要になる。そこで勉強が必要になる。けれどもそれは教えられるものではない。自分で取ってきて、自分のものにするもの。教えられるものが全てなら学ぶ必要はない。

 現実とは息苦しいもの。それをどう突破するか。

 大人になるとは社会で生きる方法に順応すること。相手の習慣に合わせることで主体性を失うとも言える。これを「厭だな」と思う人々がいる。けれどこれはおかしい。彼らは既に社会に順応してコンビニ等を便利だからと受け入れている。つまりなまけている。大人になることは、社会に合わせるためにロジックが莫迦になる。都合をすり合わせる。フリーに見える作品行為は出なくなる。

 アングラで表現される行為には反抗する意思がある。しかし反抗する意思そのままの40代、50代を見たことがない。順応し、小利口さを持って暮らすのが大人。このフラストレーションを持つ大人たちへ疑似体験でもいいからカタルシスを与えるのが芸事の役割。芸事は今後ますますビジネスとして成り立つ。観客にカタルシスを与える力、厭な言い方をすれば「癒す」力を提供する。

 「私の思い・苦しみをわかって」ではカタルシスに誘導できない。表現として様々な文化を付け加える必要がある。

 アニメ業界に就職したころは、子供向けの仕事に抵抗があった。けれど、現在から振り返ると1940年代から60年代の大人向けと言われた映画は必ずしも大人向けではない。シネマスコープでは内容はちゃちでも大画面で見る快感があった。それらの映画は現在からいい映画と悪い映画に区別される。自分は鉄腕アトムから始まってよかったと思える。

 子供向けの作品を作るのは大人向けのものより用心がいる。勧善懲悪をふまえる点だけでも内容を間違ってはいけない。それは自分にはなかった価値観で、ニュートラルな物語を作らなければいけない。

 55歳ごろから子供向けの仕事でよかったと思うようになった。大人向けのエンターテイメントには時代色が見える。それに対し子供と言う観客の9・10・11歳のときのファーストインプレッションは20代での初体験の記憶よりも強い。記憶に残る作品は古びない。

 しかしガキ向きに作れば子供が覚えてくれるかと言うとそうではない。子供が感じるように作らなければならない。だから、大人向け以上に作品の価値観を敲いて検討しないと子供は納得しない。

 宮崎さんは体験を積み重ねて表現を作った。

 どう言う要素を持ったものがヒットするかと言えば、それは“リアルなものを含んでいるもの”。リアルとは時代性でもある。(ex.スリラー・バッド/マイケル・ジャクソン)倖田來未と井上雄彦はその時代をリアルにつかめる要素を持っている。ただしその時代性の故に自分は彼らが嫌いである。なぜならば現代は厭な時代だから。「エロかわいい」と言う表現は日本語として許しがたい。しかしそれは同時に時代性を映した表現の高みで、これ以上の言葉を政治も描けていない。

 菅野よう子に作品を編み出す力は勘か勉強かと問われて「勘」と答えたことがある。しかし勘を働かせるためには感覚だけではだめで、絶対に理詰め・作りこみが必要。それは表現としての作品にする構成。勘だけではだめなのだから、他人のキャリアを埋めるものを想像するべき。

 作品を作るために、体内に残留する記憶の癖・自分の能力論を考える。自分の底にあるものだけでは社会的に何かをなしえない。だから他の文化の時代性を取り込んで作っていかなければならない。自分をフィルターにして作品を作ると言うそれが全てでは済まない。

 自分の底には何もない。キャリアの過去しかない。自分の好みがあるだけで、百万人に伝わる何かと言うものは他の文化に由来する。だから(文化の)異種格闘しかない。そこに時代性・リアルなフィーリングを付け加えれば。

 ファーストインプレッションとは何か。それは幼児体験で、決定的な衝動。10代の作られた感性が人生を作るわけでない。もしかしたら社会的に汚染されていない9歳ごろまでのものかもしれない。

 自分がこだわっていたもの、それに自分を賭けるとき、勘が働く。

 アニメはテクニックの集積でできている。アニメとテクノは双方技巧的なもの。技巧的過ぎるために親和性がない。

 エンターテイメントは華やかなものだが、アコースティックな面と、アーティカルに作りこんでいく面とのバランスが大事。最近の邦画は実写回帰の傾向がある。アーティカルとアコースティックの融合する作品と言うものが5〜10年で出てくるだろう。

 表現の自由とは表現そのものの自由であり、どういう形で発表するかと言うことには公共性との整合性が必要。作品をアニメを認めるようになった公共の場にどう表現していくかが問題。


<質疑応答>

Zガンダムのような破壊衝動を持つ作品がファーストインプレッションになる場合について。

→作品・表現としては許される。が、どう見せるかは問題。この点からは公衆わいせつ罪を認める立場にある。破滅願望についてはご自由に。


メディア芸術総合センターについて

→そういう施設を作る場合の自分の理想はある。それが不可能であるならば作るべきでない。政府が何を収集するか審査すると、審査を前提にした作品ができる。それは危険なこと。政府のお墨付き如何で作品は左右されるものではない。


最近の作品『キングゲイナー』、『リーンの翼』等の展開の速さについて

→作品を作る能力が落ちているため。情報量が多いと言うのはよいことでない。観客のスピードに合わせるべき。




富野由悠季監督講座「這い上がるために」要旨