富 野由悠季監督講座「這い上がるために」要旨

2010/11/27(土) 於NHK文化センター大阪教室 


 北 京大学・精華大学・人民大学で の講演に5〜600人の学生が集まってきた。(因みに北朝鮮の韓国砲撃の只中での講演)ネットでの告知が進んでいる。5年前に人民大学でアニメ連合の一環 として講演したが、その時にはまだ監督自身やガンダムについての輪郭がわかっていない状態だった。今回の講演で訊くと北京大学4万人の中で600人ほどの アニメ同好会がある。精華大学・人民大学でも数百人規模の同好会がある。しかし自分の作品は中国ではオンエアされていないしDVDも発売されていない。な のに人が集まったということは共産党支配がいいかげんで海賊版が広まっているということ。そして学生には監督やガンダムへの素直な興味があった。

 明大には麻生首相のアニメ館構想の時に漫画図書館を作る計画があり、明大と北京大学の連携で漫画・アニメの先端講座の交流がある。その一環の講座で、一 般的な話をと言われて行ったら、(受講者が)一般的ではなかった。

 3 大学で1000人超の同好会があり、その熱意がすごい。同人誌の作りもデジタルで見よう見まねの段階は脱している。彼らはものすごく一生懸命アニメから何 をするかを考えている。だから彼らが現場に入って、5年後10年後にどう現場を動かすかの結果がわかる。それは20年くらい前のアニメファンが集まった感 じに似ている。

 今の日本の状況はバブルな時代を経験して(アニメにもバブルがあった筈)エンターテイメント全般や、ものごとの考え方が当たり前の時代。鳩山が日本の総 裁になっても友好だと言っていられる社会。おめでたい民族・国民。

  中国の学生は党の介入の中で海賊版を見てエンターテイメントとしてのアニメをどうするか考えている。それはただの好きものの集まりではない。インテリジェ ンスを持ったうえで最高学府である北京大学に入学して、アニメを総意として判って、日本が描くものをどう抜くか考えている。その時に日本では、今のメンタ リティでアニメに対していていいのか。

 この半年ほどで韓国のポップスが一挙に出てきた。それは1年でできるチームではない。5〜6年前 から仕掛けている。人選をしてリーダーがいるシステムを作るのは今日明日のまねではできない。アニメでも1〜2年、3〜4年、10〜12年のサイクルがあ り、いずれ勉強して実務を覚えたうえで中国発のアニメが大きな流れで出てくるだろう。

 中国では2006年に国策としてアニメを支援する ようになり、200社ほどのプロダクションが立ち上がっている。中国で見た子供向けアニメの背景や動きはデジタルで日本の30年前40年前のアニメとは違 う。彩色の仕方も今の日本のアニメのまねをしていて、アニメ・映画としての完成度にはまだ不器用さがある。それは背景の現場が未熟だということ。それを講 演で提案すると北京大学の学生は「あんなもの」と笑うので、「あんなもの」をもっとよくしなければいけないのは正に君たちであると言うと、学生たちは頷い ていた。

 サブカルチャーにもバブルがあって、それが終息している。それをどうもっていくのかを考えるのが日本の現在。

 40 年 という時代を見ると時代の波が見えてくる。民主党がぼんやりした政権になっていることは厭なことと思う。それは文化も同じではないか。今の日本には韓国文 化からの波に対し返す刀がない。それに対応するキャパシティがあるかどうか。この時代を生きる我々がその方向を見つけなければいけない。

 北京大学のような外国の学生の様子を他の監督から聞かない。(見くびっている)彼らは10年後にこわい勢力になるぞという言葉を聞かない。(それはまず いのではないか)

  自分はアニメ好きにアニメを作らせるなと言ってきた。作品を単一思考で作ってはいけない。アニメ以外のものを持ちこまなければアニメは豊かにならない。学 生の間は別のことをしているくらいがいい。自衛隊やゲイバーを経験してアニメに来るくらいがいい。理想は警察と海外の仕事経験者。それらの人が企画・制 作・演出までしてほしい。そうすればアニメのコンセプトそのものが変わるのではないか。

 最近の女子ものがかたよっていると感じる。女の子の目線に則った作品なのか。女性の目線が入った作品があってもいいのではないか。男のビジネスマンが萌 えやネタで作っているのではないか。それは、子供の作品となりうるものか。

  ある監督が今の40代はサンプリング世代で、過去の作品からつまみ喰いして逃げるのだと言っていた。そのサンプリング化というのはショッキングな言葉では あるが、ビジネスとしては有りで、ヒット要素を並べて1〜2年で逃げるということもある。だが、日本中がそれをやっていいのか。その中で、5あるとすれば その中の1は違うことをしてほしい。それがオリジナリティで、オリジナリティというものは企画も演出も異種格闘技でなければならない。例えば男女の出会う 瞬間でも、ただ向かい合うだけでなく、そうでない見せ方をするように。そういったアイデアはあらゆるジャンルから学習し作品の味付けをするべきで、アニメ だけを見ていてはらちが明かない。駄作を見るよりは世界名作ものを見る・読むほうがいい。それをしなければ敗北者になる。世界名作百選に入るような作品は 好き嫌いに関係なくすごいもの。それが判らなければ、それはお前が莫迦なのだ。判るようになれ!世の中は捨てたものではない。4〜5人がいいといったもの は大抵いいものだ。

 ビジネス的な方法も、オリジナリティのある作品も、どちらも採れる作り手になってほしい。アニメだからどうこうと言 う垣根は外れ始めているのかもしれない。次の才能を見つけなければいけない。才能というものは、大学に入って勉強しようというのでは駄目。天才的にその ジャンルが好きな人はいるが、それは1万人に1人、10万人に1人。今は凡俗である我々がどうしたら少しは何とかなるのかということが問題。

  自分が実例となるが、大学4年の10月まで就職活動をせずに、虫プロの3行広告に飛び込み面接を受けた。それは職場が5〜6駅向こうにあったから。競争率 は高かったが、1回の面接で受かった。以前アルバイトをしていた広告代理店では日芸レベルでは自社の就職試験に受からないと言われていた。それでも映画・ アニメのなんたるかは判っていた。鉄腕アトム放送の2年目に入社してカット袋を運ぶ仕事をした。怖かったのはセルの色を塗るお姉さんたちで、気に入らない と色を塗ってくれないので、撮影できないことになる。だからマンツーマンでお願いしないと動いてくれない。それで学習したことがあるが、アニメを作ってい たと言いながら何をしていたのかとも思う。

 アニメは当時「テレビ漫画」と呼ばれていた。呼ばれ方自体に「動く」という要素が入っていな い。しかし映像とは動きのこと。観賞時間があって、観賞するものがあるのが映像。たとえ絵が止まっていても、それが消えるまでの時間をもたせなければなら ない。観賞する時間を要求される。そういった表現は映画の一ジャンルであって、映画論に根ざしている。

 動く絵には演出があり、演劇的要 素がある。アニメ・漫画が好きなだけで演出はできない。観賞する時間をもたせなければならないにも関わらず、虫プロの先輩は見よう見まねでそれをしてい た。映画は、音楽も同じだが流れる時間を共有して、人間の動きがどうなるのか飽きさせない演出が必要。時間をもたせるため必要なものは「動き」でそれは何 かを物語るということ。物語を語る「語り」が必要。「物語」があって、「語り部」がいる。その「語り部」をコントロールするのが監督。それは絵画的センス だけでは不十分。語るべきものを持っているかどうかが重要。

 映画評論の中からは新しい作品は生み出されない。そこに次の物語のためのヒ ントはない。物を語るのは固有の才能であって、その育て方は判らない。しかし語るべき物語を差し出す才能を引き出す方法は1つで、それは「もっとこうすれ ばいいのでは」という感覚を伸ばすこと。金銭感覚以前の9〜10歳までに持っていた感覚。「大人はこういうものを楽しんでいるけれど、もっとこんなものも あるのでは」という感覚を引き出すこと。

 そして才能がどういう形で備わっているか見つけ出し、それを仕事にするため必要なのは「時の運」。自分にとっては虫プロの3行広告が運の分かれ目だっ た。

 虫 プロで学んだことに、アニメは個人ワークでないということがある。仕事には各パートがあり、自分の力だけでは一つの仕事として成立できないような人々、才 能的に個人の絵描きより劣る人々が、総論として絵描き個人より下であるかと言うと、そうではない。才能の集団では、特別な才能がなくても、スタジオの一員 であれば喰っていける。むしろ圧倒的な固有な才能であってはいけない。それでは原画から動画を作れない。突出した才能ではなく、集団の中であるパートをこ なす。それが凡俗の仕事。

 自分はコンテのスケジュールを守ったことで、内容に関係なく仕事が来た。仕事をする上では社会の一員として「居 ていい」と言われる許しが必要で、それは最低限守らなければいけないことを守れば手に入れることができる。その最低限守らなければいけないことは仕事のこ とでないことが往々にしてあり、スペシャリストでなくていい場合が多い。採用も結局は人柄で選ばれることが多い。社会の根本はそんなもので、それプラス職 業の知識があれば尚よい。だが、その知識でさえも職場での教育で足りる場合もある。

 (仕事をする上で)基本的に人のあるべき姿を見るとそれは人柄と最低限の才能。この才能というのは中学校から高校までを卒業する学力や理解力程度でよい のではないか。

 例 を挙げれば高校まで英語を勉強するにも関わらず英会話ができないといったように、我々は根本的に狂っている何かに依って立っている。だから感度を持って自 分の中を掘り起こさなければならない。それができないならばパートの仕事に自分を振り向ける。表面ではなく、原理原則でものを考えるべきである。

 海 のトリトンを制作した時、子供に向けての物語を作る時、何に気をつけなければいけないか考え、子供向けの作品の作り方を拾い読みした。そこで一つ引っか かったことは、子供は大人の言うことが本当かどうか見分けられると述べられていたこと。それは子供にとって必要だと思うことは全身全霊で話せということ。 だから全知全能をかけるしかない。テレビアニメで公共放送に乗せるに見合うストーリーを作りたいと考えた。手塚治虫の原作をそのままでは使えないと判断し た時に、子供に嘘をつかない話をどう作るか。それを考えて、絵空事に今の時代をどうシンクロさせるかという回路を付けた。

 ガンダムでは小学校上級を取り込むSFができるか考えた。「テレビ漫画」でもティーンエイジャーが見られるものを作ることを目指せば、商社との凌ぎ合い になった。

<質 疑応答>

質問 者「市民革命以後の民主主義がもういろいろ持たん所へ来ていると思うのですが、監督は第三次世界大戦の可能性も含めて現代のリアルをどうお考えでしょう か?」

  今、人は先進国・開発途上国に関係なく、地球が有限であり、人類が永遠ではないという命題に対する回答・解決策を持っていない。現在は新しい考えを積み上 げる過渡期ではないか。現在まで、消費が拡大し経済の論理でしか社会を語れなかった。
 第3次大戦については、人間活動に要する消費量が増えすぎ、人類にそれを起こすだけの資源が残されていない。だから起こせない。
 現在60億を数える人類だが、近代までの歴史は6〜7億の人口で作り上げたもの。歴史は元々6億で行うものだった。
 漫画やアニメは時代の命題に対する回答を探して試行錯誤しているのではないか。だからこれほどまでに多くの作品が生まれているのではないか。
 根本解を得るには心の状態を神話の時代におろしていく必要がある。アニメや漫画を積み上げていく様相は、神話の成立過程と同質。ネットには太古の神話が 生まれた混沌と同質なものがある。
   「有限の地球で、人類は永遠に生き得るのか」という問いに対する新しい解・神話を探しているのだから、中途半端でない次のインテリジェンスを築かなければ ならない。多くの情報の中から立ち上がる何かはその可能性を内包している。今までのロジックを壊し新しい神話を目指してほしい。その方向性としてニュータ イプもまたあるのである。





富野由悠季監督講 演会「機動戦士ガンダム30周年 x S+FOR+SWEEP10周年 異種格闘技特別興行」要旨