第14号
2006.07.31発行
©ザ・玉島!!
 

 源平水島合戦については、たくさんの話があるため、何話かに分けてご紹介します☆゛


源平水島合戦〜その一〜

【概略編】

 源平の戦いとは、武士の棟梁である、源氏と平家が平安時代後期の11世紀末から12世紀末期の1世紀半にわたって、権力を争って繰り広げた争乱である。全国各地で戦乱が繰り広げられ、1185年春、平家が壇ノ浦(九州と山口の海峡)で平家が滅亡したことは、あまりにも有名である。県内には、二つのこの戦乱の記録が残っている。
 その戦いの一つである『水島の合戦』が起こった地こそ、ここ玉島の海峡である。(もう一つは、倉敷『藤戸の戦い』)
 当時の海峡と言えば、玉島が海であったゆえに沢山あったが、その中でも、当時『水島の途』とよばれていた、乙島と柏島の間の海峡(現在の玉島港周辺)が戦乱の地であるとされる。
 
 【戦いの概略】
 水島の合戦が起こったのは、1183年(寿永2年)の10月1日(旧暦)である。当時、平家はすでに西国(西日本)におわれ、九州まで至っていたが、山陽道(現在の山陽地方)の8ヶ国、南海道(紀伊・淡路など)六ヶ国の、あわせて14ヶ国を占領し、勢力を再び巻き返しつつあった。またこれを期に四国屋島まで戻ってきていた。
 その頃、源氏木曽義仲きそよしなかは、矢田判官代義清や海野弥平四郎行広という人を大将にし、平家の居る屋島へ押し寄せようと、ここ玉島の海峡、『水島の途』で準備を進めていたのである。
 源氏は現在の乙島側(渡里)に船を干して準備を進めていたが、そのとき、海峡に1隻の小船が現れて、当初源氏側は、漁師の船であろうかと思っていたという。
 しかし、それは平家の使者の船であったのである。使者が源氏側に宣戦布告の手紙を渡すやいなや、平家側の軍勢が柏島から押し寄せ、これに驚いた源氏側は、急いで干していた船を海に入れ、戦いにのぞんだ。
 
 源氏が混乱するさなか、かつてから戦略を練っていた平家は、船と船を横につなぎ合わせその上に板を張り、弓を射やすくし、また波をものともせず、陸地同様の戦いぶりを見せた。
 しかし、源氏側は、海戦にはめっぽう弱く、大将の1人である海野弥平四郎行広は討たれ、またもう1人大将の矢田判官代義清は乗っている船が転覆し、敗北した。
 
 これにより、平家は快勝し、平家唯一の勝ち戦とも言われる戦いである。  

 
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