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第15号
2006.08.04発行
©ザ・玉島!! |
源平水島合戦については、たくさんの話があるため、何話かに分けてご紹介します☆゛
源平水島合戦〜その二〜
【日蝕編】
この戦いを書いた文献は、『平家物語』と、『源平盛衰記』の二つがあるが、『源平盛衰記』の中に、
〔・・・かかる程に、天俄曇りて日の光も見えず、闇の夜の如くに成りたれば、源氏の軍兵共日蝕とは知らず・・・。〕
とある。つまり、この戦いの最中に日蝕が起こったということになる。
いかにも神話的な話であるが、天文学的にも証明されている話である。
まず、日蝕とは、地球と太陽の間に月が重なり、地球・月・太陽が一直線上に並ぶことで起こる現象である。
地球上で起こる日蝕は、約6585日に一度起こり、これを、【サロスの周期】と専門的に言うそうである。
このサロスの周期を元に、水島合戦の折の日蝕を割り出したのが、奈良県在住の、長谷川一郎博士である。(軌道計算の大家)
1183年の旧暦10月1日とは、現在の暦でいうと、11月17日であるが、博士は、『日食月食宝典』から計算例を出したようである。
それによると、
1183年(うるう年)11月17日
日食欠け始め 10時08分
一番欠けた時 11時45分
日食終わり 13時29分
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計算上、上の図のようになるという。食分は、95パーセントで、金環日食であったようである。金環日食とは、図のように、すべてが隠れず、指輪のように、太陽の周辺だけが見える状態の日食をいう。
太陽面やや下側を隠すように日食は起こり、太陽の95パーセントが隠れていた時間は、数分間に渡り、かなりの時間があったと思われる。また計算の結果、玉島近辺が、金環日食の見える、【北限界線】にあたり、この線は、現在の清音村周辺を通り、北から約45度西に傾いて伸びていた。
しかしこの線の間近であることから、金環日食であったのはわずか数十秒であっただろう。よって、太陽が真っ暗になったのではなく、当時玉島はやや薄暗くなっていて、源平盛衰記の、〔闇の夜の如く〕は多少オーバーにかかれたものであろう。
平家は、この現象を作戦に利用したようであるが、果たして、今から800年も前にこのような現象を把握できていたのだろうか・・・?因みに〔源氏の軍兵共日蝕とは知らず〕と書かれていることから、源氏側はこのことを知らなかったようであるが、この差は何であろうか・・?
その差は、当時、平家は、宋との密接な私貿易を行っており、大陸から渡ってきた暦を持っていたことから、生じたものだと推測されている。この日食を知った平家は、この現象をたくみに利用し、水島の合戦で勝利を勝ち取った。というのが定説である。
あまり知名度のない戦乱であるが、戦史的にも貴重な戦いではなかろうか?
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